2020年06月02日(火)
JAM The World 月イチ宮台
青木理、宮台真司

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非常に重要な話が出たので、以下、レポートを引用する。現在置かれている状況をここまで読み取らなければならない。倫理とは何か。悲劇の共有とは何か。突き付けられた課題は大きい。


■青木
前回も言ったが、一ヶ月というスパンというのは昔は月刊誌があって物事を思考するのになかなかいいじゃないかと思っている。この間、一ヶ月間でいろいろな物事が動いた。リスナーの方々から結構、宮台さんに聞きたいことといっぱいメールが来ている。例えば、マスメディアがこんなにめちゃめちゃなのにちゃんと機能していないじゃないか、と。

「権力と賭け麻雀の問題もあり、権力とメディアのあり方があらためて問われていると思うが、日本ではジャーナリズムが自浄作用として機能するためにはどのような制度設計が必要なのでしょうか。生活必需品だから軽減税率が適用されるはずの新聞よりも文春の雑誌の方がよい仕事をしているのもなんだかもやもやする。」

この前のコーナーで、ちょっと僕なりの自戒の念を話したが、宮台さんはどう思うか。


■宮台
制度の設計の問題ではない。

倫理の問題で、倫理を持つ人間たちが日本では育たないように元々なっている。それは制度よりも文化の問題。倫理とは何かというと、日本人にはわからないかもしれないが、ユニバーサルには決まっている。これは絶対に許せないという感覚の公共性。例えば、世界の法はいろいろあるが、殺すな、盗むな、火を付けるな、犯すなというのはすべて共通している。こういうネガティビティ、ひどいことについては絶対許せないという感覚を人々は自分だけではなく、多くの人が持つだろうと期待する。そういう期待し合う人間が大勢いる、そういう社会に倫理があるということで、そこから自然法思想というものが出てくる。それに対して、良いものについてはあれが良い、これが良い、簡単に言うと良いものは分化しやすい。人それぞれになりやすい。

さて、倫理というものは絶対許せないことについてのこだわりをみんなが持つかどうか、そういう期待ができるかどうかだが、それを持つための前提は「悲劇の共有」。それは何故かと言うと、もしそれが絶対いけないことをみんなでシェアできなかったら、その社会は事実として滅びてしまうことがあるから。滅びに瀕した社会はそれを記憶として絶えず再生しながら倫理を保つことがある。

日本の場合には悲劇の共有がない。先の敗戦も悲劇として共有されていなかった。その理由は単純でアメリカのケツを舐めたから。東西冷戦体制があって、実際、アメリカに戦争に負けていた。負けたあと、アメリカに着いて行けばいいことがあると思った。Give me chocolate問題でもあって、庶民感覚でもあった。しかし、東西冷戦体制はいずれ終わってしまう。そして、終わってしまった。東西冷戦体制が終わってしまえば、アメリカが自由な西側を守ってくれるという公共性がアメリカ自体から失われていく。冷戦体制が終わった90年代半ばに、日本は2プラス2を通じて、アメリカのケツ舐めをやめるかと思ったら、まったく逆でアメリカが戦争したら着いて行くという図式を作った。1999年の通常国会以降、周辺事態法であったり、有事法制であったり、盗聴法、通信傍受法であったり、ということ。そういう意味で言うと、日本は残念ながら未だに日本人は一般的に倫理がない。もちろん、メディアにもない。政治家にはましてない。そういう状態。


■青木
「悲劇の共有」という言葉がキーワードだが、宮台さんは先の大戦におけるところの無惨な敗戦も悲劇としてちゃんと共有されなかったと仰ったが、ただ一定程度は共有されたというか、あんなことをしちゃいかんとか戦争だけはやめようとか、憲法9条はいいかどうかは別にして、旗頭として憲法9条を大事にしようじゃないかというような一定程度の共有はあったけれども、しかし、いい加減で、かつ、そういう体験者、共有者がどんどん社会の中央、中枢からいなくなって、ますます悲劇を忘れ去る、共有をしなくなってしまった。こういう見方はできないか。


■宮台
それは「私たちは悪かった」vs「私たちはダメだった」の対比である。ドイツでは「私たちは悪かった」ではだめで、どこが悪かったのか、ダメだったのか、ダメさを徹底的に明らかにしてそこを変えなければまた同じことが起こる。日本人の場合は謝罪が大好きだということもあり、謝る、悪かったと言うが、じゃあ、どこが悪かったのか、どこがダメだったのか、それをはっきりさせなかった。ダメさの根源がまったく変えられないまま。

例えば、絶えずキョロ目をしながら周りを見ながらポジションを探るとか、所属集団の中でのポジション取りだけするとか、統治権力を信頼して、文句を言う人を見つけると不安を煽るのかと浴びせるとか、すべて劣等性そのもの。この劣等性、ダメさをまったく変えていない。


■青木
そこにこだわるが、悲劇の共有の意味でいうと、例えば先の311、東日本大震災、福島第一原発の事故、あるいは新型コロナの感染拡大、例えば、最近、検察庁法改正に抗議するというムーブメントがネットに広まったというのはある種の悲劇を市民たちが、あるいは、我々が共有したので、ポンコツ政府にまかせると大変なことになるよとようやく気付いたことによって、これは許すべきじゃないというようなものが一定程度わずかながらも広がったと見るべきか。


■宮台
そういう風に見るべきだが、それは60年の安保条約の改定のときや警察法改正のときとか、度々、そういうことは日本では度々生じている。ところが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということは繰り返し生じてきた。丸山真男が日本人はこのままではまた同じことを繰り返してしまう。だから、日本は自立して、あるいは、日本人は自立して、一身独立して一国独立するという福沢諭吉の原則に戻るべきだとはっきり言っていた。多くの人たちはまさにそうだと思って、丸山真男ブームが知識人の間で起こった。でも、それはブームだった。周りが読んでいるから丸山を読む。周りが良いと言うから丸山が良いと言う。したがって、キョロ目している人間たちはブームが終わってしまうと、丸山から離れて、気が付くと社会から丸山の痕跡が残っていない状態にあった。だから、10年経つと社会は丸山を完全に忘れていたということになった。なので、一時、これは絶対許せないという風に国民が噴き上がるだけでは、同じことが繰り返されるということをメタ的にそろそろ学ばないとマズいと思う。


■青木
宮台さんに質問が来ている。

「宮台先生に質問だが、安倍内閣は何故このような状況の中でも政局にならないのか。もう嘘で固められた内閣で、できるのは飛行機を飛ばしたり、使えないマスクを配ろうとしたり、国の一大事のときに出てくるものとは程遠い感じがする。何しろ、それを自慢するのだから、目も当てられない。どうしてこうなるのか。」


■宮台
悲劇を共有していないから。

安倍をトップにいただいていることで日本が奈落の底に落ちることを経験する必要がある。それを加速主義的な立場と言ってきた。その意味で言うと、僕は安倍さんに四選してほしかったし、安倍内閣第二次誕生したときも喜んだ。これで日本人のいい加減さによって日本人が自業自得の悲劇を被るだろうと予測したから。そういう風になりかっているのはとても良いことだと思っている。しかし、まだまだウヨ豚が跋扈している状況を考えてみると、あるいは安心厨、簡単に言うと上に媚びへつらう依存厨と周りをキョロキョロ見てポジションを取るキョロ目厨が合体して、安心厨になっているという、こういう安心厨という虫がどんどん湧いている状況を見ると、相変わらず、自分の頭で置かれている状況を観察し、自分の周りの人間たちを守るために決して安心せずにベターな選択していくというのができない。「不安を煽るのか。」「バーカ。不安にならないと各人が選択できないんだよ。」とそういう問題がわかっていない人たちがまだ大勢いる。残念だけれど、もっともっと落ちないとダメ。


■青木
宮台さんが別の場所でも議論していて注目していたが、おそらく多くの人々、それなりにきちんと思考能力がある人であれば、決して今、日本のこの国だったり、社会だったり、政治だったりがおそらく良い方向に向いていると思っていない。しかし、なんとかやれているよね、と。

最近、某大手新聞がなんでこんな世論調査をしたのか意味があるか別にして、未だに日本の人の6割、7割は自分が中流だと思っている、と。つまり、まだまだ別にそれなりに呑気に暮らせるよね・・・宮台さんの言葉で言うと茹でガエル。急速に温度が熱湯に上昇していけば気が付いてこれは許せないとなるが、まだなんとなく暮らせちゃっているよね、と。徐々に温度が上がっているので。悲劇がどんどん先送りされて、カタストロフの度合いがでかくなっちゃう恐怖を抱く。


■宮台
カタストロフは本当は不幸なことだが、日本にとっては必要なことだと思う。

以前から日本の経済データは盛られたものしか発表していない。失業率は非正規で盛れる。同じことで株価はGPIFと日銀で盛れる。盛れないのは最低賃金、個人別GDP。これはひどい。あるいは、国家レベルでのGDPでの成長率。日本は20年間成長していない。家計レベルの実質の所得が一番高かったのは97年。なんと23年前。しかも、最低賃金はアメリカの高いところや欧米の3分の2、場合によっては半分。個人別GDPはそういう状況で、去年、韓国とイタリアに抜かれている。

しかも、みなさんはどう思っているかわからないが、オリンピックは多分もうない。それは選手に練習会選考会その他を強いることが残酷だから。日本でそれができたとしても、他の国ではできない。とすると、まず経済的に日本はなんとなく成り立っているように見えるが、これからは成り立たない。日本人は能天気なので、Modern Monetary Theory(MMT)が成立するかどうか、財政破綻するかどうかをよく議論する。財政は破綻しない。問題はそこではない。いわゆる年金の財政が破たんするかどうか。破綻しない。いざとなったら、支出を絞ればいいだけ。

問題は日本人がどんどん貧乏になっているということ。財政破綻しなくても、どんどん貧乏になっている。日本は内需で回っているが、資源やエネルギーは外に依存している。貧乏になれば、どのみち我々はそれを買うのに身銭を切らなければならない。今でさえ義務教育費は先進国の中で最低。だから家計の中から、1/3、1/4というお金を教育費に回している。

しかし、多くの国ではヨーロッパを中心として教育は無料。医療も北欧を中心として無料。その代わり、税金は高い。税金は高いが、ヨーロッパ全体として所得も日本よりも高ければ、物価も日本よりも高い。最低賃金も1.5倍から2倍。その代わり、ワンコインなんかではご飯を食べれない。昼間でも1000円払わなければ暮らせない。それがでも、豊かな国ということ。そういう意味で日本は終わっているが、それをマスメディアは報じない。それはなんとなく皆のいい気分、なんとなく中流でいられる気分を壊すことで不人気になりたくないから。しかし、どこかで潮目があって、閾値を超えると能天気なことを言っていると今度は叩かれるように必ず日本は変わる。いずれ近いうちに生じる。それは潮目を越えなければダメで、カタストロフ寸前までいかないと変わらないと思う。


■青木
カタストロフいく前の段階で、例えば、宮台さんがよく言っている産業構造の変換にしてもその他、いろいろな問題点を気が付いて、どこかで何か変えるというのがあるいは変わるというのが人間の理性であり、知恵であり、知性でありという感じがするが、宮台さんが仰るようにカタストロフなのか、カタストロフ直前までいかないと変わらないというのは日本人特有ということなのか。


■宮台
日本人特有のこと。

これはかなり古い歴史があるので将来に渡って変わらない可能性が高い。人類学や民俗学を調べればわかるが、日本人は日本という国はこの地域は農耕、農業が始まる前に定住していた。縄文の初期の段階がそう。縄文の途中から農耕が入ってくるが、その前から定住していた。それは何故かと言うと日本の国土の当時9割が山で、各地に点在している沖積平野に人が住んでいた。沖積平野と沖積平野の間には距離があった。距離があったので、何と言うべきか、要は争う必要はなかった。争う必要はなかったので、ジェノサイドもなかった。


■青木
地域的に言うと、日本と言う国の島国根性という言葉に置き換えられるかもしれないが、例えば、直接的に侵略されたことがないし、存立自体が危機に本当の意味で陥ったことがなく(先の大戦は自業自得で存立自体が危機に陥ったが)、そういう意味で言うと、よく言えばのんびりしていると言うか、悪く言えば自分たちが生き残るために何を選択し何をどういう風に向かって行ったらいいのかということができなかった。


■宮台
要するに、倫理がない。倫理がなくて、周りに合わせるだけ。

倫理と言うのは貫徹。簡単に言うとそれをしなければ我々は滅びてしまう、だから許せないことは絶対に許してはいけないという貫徹。日本にはその貫徹がない。何があるかと言うと、学習がある。周りがもういいと言っているからいいんじゃないとなる。それはそれでやってこれた。そういう地政学的なあるいは風土的な特徴があったから。そういう特徴がある場所は世界中にない。日本人の歴史が作り上げた特性だと言える。


■青木
それはちょっと悲しい気がする。


■宮台
ただ、考えてもらいたいのはそれがひどくなる可能性。今、ZOOMとFaceTimeを使って、ブロードキャストをやっている。こういうリモートワークやリモート授業が広まると、確かにTwo-Weであるけれど、集まりの構造、ギャザリングというのがなくなる。ところが、小学校のころを思い出してほしい。教室の教室たるゆえんは先生と生徒の間の二方向、双方向のコミュニケーションというよりも横のつながり、生徒の間のつながり。生徒の間で遊ぶことであったり、知らない人と出会って仲良くなって、喧嘩してまた仲良くなるみたいなそういう横のプロセス。そうしたギャザリングがあるので、例えば、先生に聞かなくても友達に聞いて、場合によっては悩み相談もしてお互い親しくなるだけでなくて、そこでいろいろな解決できる、という知識社会化ということも学べる。今、リモートかして断片化されたアメリカの二国間外交みたいなレクチャーだと生徒の間とのそれぞれとの関係があって。。。


■青木
スタジオにいる作家の人間も興味があると言っていたが、要するにリモートでいろいろできるのは利点も利便性もあるが、ギャザリングつまり集まることができなくて横の場がなく分断される。これは問題があるか。


■宮台
めちゃくちゃ問題ある。

例えば、倫理の基盤とは何だろうと考えてみると、基本的に言葉の外、損得の外、法の外でつながっているという感覚。これは例えば、外遊びなら外遊びで生じることでもある。簡単に言うと、一人で虫を獲ってても無理で、みんなで虫を獲る、球技をする、ブランコで遊ぶことがあると、縄跳びが一番わかりやすいけれども、共同身体性が生じて、それをベースにして共通感覚も生じる。だから、人が痛いとなると自分にも痛みが生じるというダイレクトな身体性、つまり、つながりというのも生じる。

そういう経験の中で与えられるものが実は倫理の基盤。それがなくなってしまうと、我々は残念ながら仲間を作るということができなくなる。そうすると、仲間のために何かを背負う、僕だけが許せないだけでなくみんなも許せないはずだという感覚もなくなる。残念だが我々から倫理の基盤が消えていく。今でさえどんどん脱倫理的になっているが、ひどくなっていくだろう。


■青木
つまり、ただでさえ日本人に希薄なこれは許せないんだという公共性みたいなものが、コロナ禍の中で子供たちでいうと三ヶ月くらい喪失しているが、これがさらに進んでしまうという可能性がある、と。


■宮台
その可能性があるということ。集まりの構造をどれだけ意識的に保つのかというと今後、コロナでロックダウン、あるいは疑似ロックダウン、それを緩和し、歩いて井戸繰り返すのだとしたら、非常に重要になる。

コロナで死ぬのも大変なことだが、経済死、経済で死ぬのも大変なこと。しかし、経済で死ぬというのは日本の場合、自殺あるいは孤独死。当たり前だが、コロナ死と自殺者の数、これは経済と相関しているが、合わせた数を減らさないといけない。もっと言うと、コロナ死、経済死、社会死、孤独死というものを合わせたものの数を減らさなければならない。

コロナの数も減らしながらもそればかりを計上するのはダメで、人々の倫理的な感覚のベースになるような集まりの構造を保つ、それも長い間、意識しながら保っていくということが必要で、もしそのことがうまくいくのであれば、まさにコロナを奇貨として日本人が自覚しなかった倫理の基盤を我々が再構築できるということになるかもしれない。


■青木
宮台さんに聞くのは愚問かもしれないが、9月入学というのが一時盛り上がって、政権基盤が揺らいでいるので与党からはねられたらしく、結局ぽしゃったのだが、9月入学への移行は宮台さんはどう思うか。


■宮台
くだらないと思う。以前、デイキャッチでも言ったことだが、安心安全便利快適という便宜という観点からすると留学がこれから増えていく。出ていくのも入ってくるのも。そうすると、9月入学にした方がコストがかからなくなる。長期的に見た場合、そういうこと。無駄な時間を使わなくてよくなる。

しかし、国際化はこれから考えればわかるが、例えばビルゲイツがどうしてBH(big history)に関心を持ったのかというと、リモートな大学の受講、それを通じて関心をもった。これからおそらく海外に留学するといっても、リモート授業にお金を払って参加するという形になっていく可能性がある。たまに、チューターに会ってコーチングを受けるために、二月に一度、1シーズンに一度、現地に出かけて、一週間のセミナーを受けるみたいな形になっていくと思う。

そうすると、英語教育の問題と同じになる。ポケトークみたいなのがどんどん普及していけば、一般人には英語教育がいらなくなっていく。英語教員にとっては非常に大きな利権問題だが、テクノロジーが発達した末に何が生じるのか考えてみると、人の移動はこれからどんどんどんどんいらなくなっていく。そうすると、例えば、日本の場合はなぜ4月なのかというと、春は日本場合はいろいろなものが芽吹き、桜が咲いて、ある種日本人が長く抱いてきた共通感覚にマッチしていることもある。先ほど、共通感覚の問題は別の枠組みで集まりの構造と話したが、お花見に集まってそこで新しい時代の、あるいは、新しい時期の始まりをみんなで称えあうという風にして一年が始まるという日本的な感受性が結構、大事かもしれない。

何故、大事かもしれないという言い方をするかというと、例えば、全米ライフル協会のチャールトン・ヘストンが以前、会長をやっていた。そのとき「銃を持つことによって、カナダの300倍も人が死んでいる。これはおかしいのではとあなたの言うことはわかるが。」と言う。アメリカ人にとって、銃、GUNはシンボルである。GUNを手放せば、確かに秩序は保たれるだろう。しかし、それはもうアメリカではない。

社会が良くなると言うときに、単に社会が良くなるという風なのっぺらぼうな考え方でいいのか、まさに日本人にとっての日本の社会が良くなることを意味しているのかということを考えるのが実は保守ということ。右ということ。僕たちの共通感覚を壊すような社会を壊すような、そういう社会の改革によって、安心安全便利快適な度合いが上がったとしても、それは確かに社会は良くなった。しかし、日本の日本人の社会が良くなったと意味するのかどうか。これは文学者が長く問うてきた問題。三島由紀夫がからっぽな日本という言葉で問うてきた問題。あるいは、保田与重郎という日本浪漫派の人がそういう恥ずかしい西洋的なもののパッチワークしかできない、いつもいい加減で周りをキョロ目してこの恥ずかしさが日本人の日本人たる所以なんだと言ったと関係する大問題。


■青木
と言うことは9月入学なんものはレガシーが欲しいだけかもしれないが、この機に乗じてやろうというのは今の政権だったり、今回進めようとした人たちは「自称」保守の人たちでとても保守と思えない、と。


■宮台
インチキ保守。牢屋に入りたくないというだけで、特別法の国家公務員法を改正、解釈して、黒川の定年延長を計ろうなんてやった。黒川は東京高検の検事長ということになっていが、僕は検事長として認めない。黒川決済の書類が出てきたら、みなさんどんどん訴訟しようと呼び掛ける。


■青木
屁理屈を唱えるわけではないが、これは許せないという公共性が日本では薄いじゃないかという話だったと思うが、(一方でピント外れかもしれないが)新住民と自粛警察という自粛警察がコロナのときにムーブメントになったが、みんなが我慢しているのにあるいは感染防止のために頑張っているのに、こんなことをしているヤツを許せないという感覚を持っている人たちと言えないこともないかな、と。


■宮台
しかし、それは神経症的な個人的な感情に過ぎない。

要は自分がやっていることをやっていない、自分はキョロ目して生きているのに、正々堂々と自分でいろいろ考えてきているヤツを見ると、自分が否定されたと感じて劣等感を覚える。なので、みんなで一斉に叩く。不倫炎上でも見られることで、一概に倫理があるからじゃない。何故かと言うと基準がいつもころころ変わるから。

統治権力やこう言っているのに、結局、偉いもの、大きなもの参照して、それをみんなでキョロ目しながら従っていく。ところが、そこに自由な人が一人いると、コイツ目障りだからやっちまえという風になる。この劣等性がまさに安心厨として表れている。自粛警察として。


■青木
公共性というか、許せない公共性がない。日本の場合は特に元々ないかもしれないけれど、アメリカの場合、トランプ政権を見ていると、トランプを支持している人たちは悪いわけじゃないが、そもそもそういうものが崩壊していっている。自分たちが中流から落ちたせいなのか、あるいはエスタブリッシュメントへの反発なのかという理由は別として、許せないという公共性はアメリカでも壊れかけている感じもする。それは日本と違うと思うか。


■宮台
アメリカの場合は大分、違うと思う。

トランプの支持母体はラストベルトの旧自動車工業を中心とする昔、中流だった労働者たち。今、オピオイドがアメリカでこの10年間蔓延しているが、白人の旧労働者たちが中心。この人たちは心身ともに傷んでいて、しかも昔はこうじゃなかったのにと思っている。そこにトランプが出てきて、オレにまかせろ、と。あの古き良きアメリカをオレが復活させてやる、と。オレがお前の痛みを止めてやる、と言っている。

これはすごくアメリカ的。インテリのテクノロジスト、反動主義者、加速主義者もトランプを支持している。何故かと言うと、トランプであればテクノロジーを通じて、バーチャルとかオーグメンテーションだけれども、それを使って古き良きアメリカを復活させられるだろうと思う。アメリカには絶えず「古き良きアメリカ」という参照点があり、それから離れれば離れるほど痛みを感じる。そういう状態があり、であるがゆえにオレにまかせろ、傷みを止めてやる、古き良きアメリカに戻してやるというメッセージになる。

これはもちろんポピュリズム。政治的な動員を意図した扇動。しかし、これに意味を持つということにすごくアメリカ的な文化を感じる。

実は今起こっている人種暴動の背景でもある。リチャード・ローティが今から25年前にこういうことを言った。リベラルという思想は乗り物に座席がたくさんあるときの話で、そうすると関係ないヤツが座っていても、女が座っていても、黒人が、ヒスパニックが座っていてもまあいいかとなる、と。しかし、座席が減ってくると(90年代半ばごろから段々減っている。今、急速に減っている。)、そうなると「なんでお前が座っているんだよ。それは元々、オレたちの席だったんだ。」となる。

元々、オレたちの席だということを主張する人間たちが排外的に振る舞うようになる。日本と違って、アメリカの場合の排外主義、人種主義は単なる神経症的な気休めということではなく、座席が少なくなってきたときに元々誰の場所だったのかということを主張する人間たち。

むしろ、これは移民国家だから起こること。最初に入ってきたのは誰なのかということから入ってきている。アメリカは多様性があると言うけれど、それは古き良きアメリカを作っていたキリスト教白人の多様性である。モルモン教があってもいい。キリスト教の様々なセクトがあってもいい。それぞれ生活形式がは多様だ、と。それは白人のキリスト教徒の多様性でしかなかった。そこには黒人は、ヒスパニックは、あるいは東洋人はいなかった。バスの座席に座っていなかったよね、だったら出ていってくれよという風になっている。その意味で言うと、非常に原理主義的になりやすい。

日本の場合は原理主義になるよりかは参照点がまったくない。なので、保守とか主張する人間たちを見ると、一体コイツら何を参照しているのだろうか、頭大丈夫なのと思う。