2017年2月11日(土) KBCシネマ(福岡県福岡市)
映画「人生フルーツ」舞台挨拶、トークイベント
出演:阿武野勝彦プロデューサー、伏原健之監督


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<伏原>
福岡には実は人生フルーツの撮影のときに何度も来ている。

名古屋から福岡まで一時間ちょっとで来れる。
最後の後半のシーンで佐賀県伊万里市が出てくるが、
福岡空港からレンタカーで佐賀まで行った。

こういった形で上映したいと思っていた。


<阿武野>
去年、ここで「ヤクザと憲法」をやらせてもらって、
そのときもほぼこのような感じでたくさん入った。
それが8作目だった。

9作目で「二人の死刑囚」というものをやって、これで10作目になる。

そのうち、たくさん入ったのが3作くらいで、
いつもそんなに過剰に期待をすると落ち込むので
ゆっくりこつこつ、ときをためて、やっているうちに
きっといいことありますよという感じでぶつかってきた。

伏原と私、そして樹木希林氏の力を借りて宣伝活動を行い、
今までと違ってラジオで呼ばれてしゃべってみたり
いろいろなタレントさんにしゃべってもらうことが起きた。
もしかしたらヒットして、たくさん見ていただけるじゃないか、
これは「ヤクザと憲法」を超えるのではと思った。

「ヤクザと憲法」は全国で4万人入った。
ドキュメンタリー映画は1万人入ると日本ではヒットと言われる寂しい世界。

「人生フルーツ」は1/2の東京から始めたが、すでに2万5千人くらい入っており、
おそらく4万人を超えるのではと思っている。


<伏原>
テレビ局に平成5年に入って、20年ちょっと経っている。
仕事で言えば最初は営業マンをずっとやっていたが、
テレビ局は番組を作る部門は制作局と報道局があり、
ある日突然、制作局の方でバラエティとか情報番組を作るところに行った。
その後は行ったり来たりしているので、キャリアの半分は報道をやっている。


<阿武野>
私は3年ほど営業で苦労した。


<伏原>
樹木希林氏とはこれまで何本かやらせてもらっている。
これができた後、ある新聞記者の取材で樹木希林氏はこういうことを言い出した。
「この人(伏原健之氏)は才能がないの。この人は才能がなくて全然面白くないの。」
才能があればもっとこう自分の思いをぶつけて自分色の作風を作るのだが、
良くも悪くも才能がないのでいい人をそのままの形で出している、と言われた。

そのとき、なるほどと思った。
自分はこういうものを作りたいということよりも、
先にこういう素敵な人、面白い人と近くになりたいという感覚がすごくあって
この仕事をしているのも、そういう人に仕事を称して近付けるから。

このドキュメンタリー作成で自分自身が一番長く津端さんと身近にいることができたので、
得しているのは自分だなぁという感じがすごくある。

ちなみに、映画で食べ物がいっぱい出てくるが、すべて我々の分も含んでいたため。

正直、最初はかっこいいおじいさん、おばあさんの物語を作りたいなぁという軽い気持ちでいた。
電話をして、そのときは映画を作るのではなくテレビで取り上げたい、
東海テレビだがお会いしたいと申し込むと、テレビの取材はお断りと第一声に言われた。

地元で全然有名ではないが、雑誌や新聞に載っていたり
過去には高蔵寺ニュータウンの企画などでテレビに出たこともあった。
それにもかかわらず断られたのは意外だった。

僕も最近、いろいろな取材で断られたらすぐ次にとなるが、
津端さんの場合は引っかかりがあって、
恋愛に例えると振られてから燃え上がるというものがあった。
そこで手紙を書いた。
夜中に書いたラブレターみたいなもので、
こういう思いですよというものを3、4通送った。
三ヶ月くらい経って、その後にじゃあいいですよという話になった。

結果的に2年くらい取材している。
取材開始からちょうど1年で修一さんが亡くなられた。
本来、番組作成するときは1年くらい取材するが、
結果的にそういうこともあって2年になった。

ドキュメンタリーを作るときに面白いところが
初めから意図したものと全然違うものができるところで、
この作品もそれだった。

まさに修一さんという人に引っ張られるようにして
全然予想しなかったものが出来上がった。
タイトルは最後の最後、あと一週間後にナレーションを入れて
完パケにしないといけないタイミングで付けた。
タイトル自身が最後に出てきた。

最初、変なタイトルだなあ、洒落てるタイトルだなあといろいろ思ったかもしれないが、
観終わった後にこういう意味だったかな、いやこうじゃないとか
そういうふうになれるようなタイトルにした。

番組そのものを表しているが、パッと聞いただけでどういう中身かわからないのは
いいタイトルと思っている。

作品としては先ほども言った素敵なおじいさん、おばあさんの物語が撮れればいいなあ
から入っている。
この映画の前半部分の甘い生活が取材のきっかけである。

どんどん知っていくにおいて、
修一さんの過去の思いであったり、何故こういう生活をしているのか
ということが亡くなったあとにわかってきたり、
亡くなったあとでも果実が実るというか
どこで実っているのだろうという感じがする。


<阿武野>
伏原は本当は才能があって、
樹木希林氏も本当は伏原が才能があると思っている。

元々は戦後70年の年に放送しようということで取材を始めた。
要するに90歳の人生の中で戦後70年が丸ごとすっぽり入っているという意味で
被害加害の問題をとらわれずに津端修一さんの90年の人生の中の70年間、
その後の20年みたいなことを表せればいいというのもあったが、
取材の進捗が良くないことと伏原が会社の中で人事異動があって
ニュースの編集長をやらなければならなくなった。
月曜から金曜まで張り付きで会社にいなければならず、
土日も何かあるといなければならない状態になった。

なかなか上手にいかないと思っていたときに、
修一さんが亡くなって、その後に本腰を入れないといけないという形で
戦後70年にこだわらずにゆっくり構えてやろうとした。

会社の中でも、ゆっくりこつこつ、ときをためて
やっていいよという風土を作るのがプロデューサーの役目だった。

最初、第一項といって、撮りあがってロケが全部終わって帰ってきて
編集マンと編集を始めて、第一項というものができる。
大体、3時間くらいあった素材を見たときに、
修一さん、英子さんのことが好き好きでしょうがいない伏原という男が見えた。
これをファンムービーというらしい。

ファンのためのすでに津端さんご夫婦を知っている大好きな人たちのための
映画、番組みたいなように見えた。

それから距離をどう剥がしながら、見ている人たちが御覧いただいて
うわぁなんか距離が近すぎな感じではなく、スゥーと入ってこれるような
素材にしていくという作業を編集マンと伏原で模索していた。

音楽がかかわってくると、ファンムービーではない音楽の出し方をしないといけなかった。

制作しながら心持ちが変わってくるというのも監督の中にあるので、
そういう心の動きを見ながら最後こういう作品になった。


<伏原>
実は若い女優さんとこういう機会で知り合いたかったので
ナレーションは若い女優をイメージしていたが、
プロデューサーからここで樹木希林氏に頼んどかないといつ死ぬかわからないとして
早い段階で樹木希林氏に決まっていた。


<阿武野>
樹木希林氏とこの間も会った。
内田也哉子氏、本木雅弘氏がこのドキュメンタリー映画を見てくれていて、
すごくいい、よそのものとまったく違う深さがあると言って、
スタッフをほめてくれていたが、その最後に、
でもナレーションはお母さんでなくてもよかったね、と。


<伏原>
樹木希林氏は実はナレーションを初見でそのまま一発取りで行う。
台本も映像も事前に渡していない。

大半の人は台本も映像も渡して役作りをしてナレーションを行うが、
樹木希林氏は来て一発で見ながら入れるナレーションを入れる形。

制作者側からすると、樹木希林氏の数少ないナレーションで
あまり説明調でないものを入れることで、
樹木希林氏だからこそのスパイスが効く思いもあった。

最初、いきなり「風が吹けば桶屋が儲かる」と入れてきたときはガクッとしたが、
声を聴いてすごいなぁと思った。

樹木希林氏はこれまでいろいろなものを見てきているので、
認められるかドキドキしていたが、一言これいいんじゃないと言われた。
あと、誰もがこういう風になれるわけじゃないからねとも言われた。

戦争の話は戦後70年の年に取材をしているので、
そういった目線で質問したり話を結構している。
戦争のときは海軍の技術士官だったので、
直接は悲惨な体験をしていないということもあるが、
修一さんの話は戦争時代は自分のある意味青春だった。
すごくそれを感じた。

修一さんが何度も言っていたのが、
「いい国作ろう何度でも」である。

戦争から今がある。
そのときに何を考えて、今をどうしていくべきかを言っていた。
自分がイメージしたのはジブリの風立ちぬの堀越二郎みたいな面持ち。

自分はドキュメンタリーを映画化するのがこれで2本目。
1本目は「神宮希林 わたしの神様」という樹木希林氏が伊勢神宮を旅するもの。
そのときに映画とテレビの違いは何かとすごく考えた。
違わないはずなのに明らかにタッチが違っていた。

「人生フルーツ」は映画にすると思ってやっていなかった。
テレビとしても、映画化したことで学んだ手法はやっていきたいと思っていた。

映画とテレビで何が違うかというと、
どうしてもいつも関わっているテレビの情報、報道番組は説明しすぎなところが多いこと。
説明しすぎというのはナレーションが多すぎること。
もう一つはテレビのカメラワークは無理矢理ズームしたり
無理矢理カットを積み重ねたりしていること。
笑っている顔、泣いている顔にいつもズームする。
はい、笑ってますよという説明くさいカットでやる。
それが見ている人へのサービスだと思ってやっているが、
それを映画として見ると、ちょっとくさいというかわかってますよという
感じが出て嫌だった。

テレビが悪いわけではないが、いつの間にかテレビ的な手法になっていた。
一回なおしてみようと自分の中で思っていた。

これを撮影しているときは「ヤクザと憲法」が世間で話題になっていたときで、
自分も当然見ており、ヤクザの取材ということもあって刺激的なシーンが出てくる。

自分はそうではなく、淡々とした日常を作ろうと思っていたが、
ただ「ヤクザと憲法」は刺激的なシーンが毎日あったわけではなく、
ヤクザの日常を淡々と丁寧に撮り続けた結果、ああいうものができたと気付いた。

我々はごく普通の人の日常生活だが、
この二つは一見してタイトルや世界観が全然違うように見えるが、
取材の手法、作り方は実は一緒。

東海テレビのドキュメンタリーのシリーズがあるとすると、
そう言った作風は同じなのかなと思って作っている。


<阿武野>
ドキュメンタリーはディレクターがこれをやってみたいと言ったらやるというのが根本的な考え。
2/19(日)に1本テレビでやるのだが、タイトルは「悪い犬」。


<伏原>
東海テレビのドキュメンタリーのタイトルは変だとよく言われている。


<阿武野>
戦後70年の取材で、知覧の特攻記念館に樹木希林氏と一緒に行って
帰ってくるときに2本の電話が入った。
1本目は修一さんが亡くなったという電話。
2本目は名古屋で逃げ出したドーベルマンが4人噛んだという事件が起き、
そのドーベルマンを保護した人を追いかけることができそうという電話だった。
それから「悪い犬だ、手を挙げろ」みたいなことを言って始めたのが
今月の2/19(日)に放送される。

こちらは空っぽで、ディレクターが何か空っぽの水瓶に
何かを注ぎ込もうとしたときに、どうぞ注いでくださいというのが根本的なやり口で
上手にきれいな水にするのか、おいしいお水にするのか
といろいろなことを考えるのは仕事なのかなと思っている。

修一さんが亡くなって、そのあと放送して
その後に放送が終わったということで伏原と一緒に英子さんのところを尋ねた。

そのときにどうですかと話をしていたら、
「私、テレビを見るようになっちゃった」と言い、
酒場放浪記をよく見ているとのことだった。
修一さんがいたころはあまりテレビを見なかったとのこと。

私、居酒屋に行ってみたいと言うので、ぜひ行きましょうと返事をしたのだが、
我々いつも頭の中でいやらしいことを考えているから
これは樹木希林氏と一緒に居酒屋に連れていって
そこで二人の女子トークみたいなものを撮って
番組にしたらどうかと思いがあった。

そして、1月の終わりに「樹木希林の居酒屋ばぁば」という番組を放送した。
その後の英子さんの物語が全部入っている。
二人で子育ての話、孫の話、夫の話、世の中の話、
食の話、死についての話、などなど盛り沢山で
英子さんが一方的にしゃべるという今までに見たことがないような
トーク番組になった。

この話をするとどこで見れるかと聞かれるが、
これは東海テレビローカルプレミアムと言って
東海三県にいないと見ることができない
テレビ西日本にやってよと言っても、おそらくやらない。

樹木希林氏と英子さんの話はそういう形で取材して、
地域の人たちに番組を返すという活動をしている今日この頃。


<伏原>
「樹木希林の居酒屋ばぁば」は51分の番組。
使っている音楽の権利関係を処理して、
劇場でもできないかというのはプロデューサーがちょっと考えている。


<阿武野>
地域と放送局、テレビマンというのは重要な関係性があるので
少なくともそういうような流れで、私たちを楽しませ、
私たちを刺激し、そういう番組を作ってくださいというのを
要望されている。

良い番組があったときにはとにかく褒めてやる、そして、
悪い番組があるとバッシングよりも撫でて育てていくみたいな
関係性があるともっとテレビ局と見る人、テレビ局と地域の人たちの
関係はもっと良くなるのでは。
その中に私たちはいるぞと考えながら仕事をしている。


<伏原>
また仕事を称して、面白い人といろいろ知り合っていきたい。
冒頭でドキュメンタリーのヒットの話があったが、
「君の名は」は1500万人、「この世界の片隅に」は100万人、
ドキュメンタリーは1万人行けば大ヒット。

いろんな映画があって、いろんなものがフラットに
見ていただけると本当にいいなと思っていている。

人生フルーツはいろんな方が見ていただいて、
女性や家族や恋人同士でドキュメンタリーをみんなで見るみたいな世界があったら、
毎日楽しいと思えるので、自分はどういう形であれ、みんなで楽しめるものが
作れるといいと考えている。

大ヒット、大名作ではなくていいから
ホドホドの感じでホドホドの気持ちで時間を過ごせるものが
いっぱいできたらいいとすごく思っている。

プロデューサーの意向で作品をDVD化しないという方針があって
よくあとでDVDになったら見ようかしらというのがあるが、ぜひ劇場に。


<阿武野>
余談だが、全国回ると映画が終わったときの雰囲気は会場ごとに結構違うのがわかる。
今までいくつか回ってきたが、拍手が沸いた回があった。
東京の初日にそれがあって、ぴあの初日満足度ランキングみたいなインタビューがあって
以下、それを読んで胸が詰まった。
「映画館に誰も知り合いがいるわけでもないのに、
どこともなく、誰ともなく、拍手が沸いて
家族でも何でもないのにまるで会場がみんな家族のようになった。」

これがDVD化せずに映画館でやる一番の意義。

大阪に行って、大阪の1回目は拍手が沸いて、2回目は沸かなかった。
その舞台挨拶をしたときに今みたいな話をして
「拍手が沸かなかったということは家族の絆が結べなかった」
と言ったら、一番前にいたキレイな女のコが拍手をするよりも
胸がジーンとなってしまったと言ってみんなが拍手をした。
もっと強い絆で結ばれたという話。


<伏原>
一番よく聞かれる質問で、英子さんはその後どうかと聞かれるが、
非常に元気で、佐賀県伊万里市にもう一度行きたいと言っている。