2015年10月3日(土) シアター・シエマ(佐賀県佐賀市)
BOOKマルシェ佐賀 2015 宮台真司 辛酸なめ子 トークショー
出演:宮台真司、辛酸なめ子


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■辛酸なめ子のおすすめ
・書籍「胞子文学名作選」(田中美穂著・編集/港の人)

・映画「愛人/ラマン」(監督:ジャン=ジャック・アノー)
 原作:マルグリット・デュラス「愛人 ラマン」

・映画「最後の1本」ペニス博物館のドキュメンタリー映画


■宮台真司のおすすめ
テーマ「原作と映画の関係」
原作を映画に「編む」ときに、何がどう変化するか、あるいは変化させられるか?

・映画「コングレス未来学会議」(監督:アリ・フォルマン)
 原作:SF作家スタニスワフ・レム「泰平ヨンの未来学会議」

・映画「スキャナー・ダークリー」(監督:チャード・リンクレイター)
 原作:フィリップ・K・ディック「暗闇のスキャナー」

・映画「2001年宇宙の旅」(監督:スタンリー・キューブリック)
 原作:アーサー・C・クラーク「2001年宇宙の旅」

・映画「惑星ソラリス」(監督:アンドレイ・タルコフスキー)
 原作:SF作家スタニスワフ・レム「ソラリス」


フロイト派で有名な精神分析家でジャック・ラカンがいる。
様々な人が映画批評にラカンの図式を利用をしている。

最近、この半年くらい映画批評を再開して、miyadai.comに掲載しているので読むことができる。

映画「最後の1本」は予告編だけだとわからないが、
背後には大きさ自慢、経験人数自慢というのが出てくる。
僕(宮台真司)も他人事ではない。
ジャック・ラカンの有名な言葉に「人間の欲望は他者の欲望である」というのがある。
この他者というのは社会と言い変えてもいいが、得体の知れない人を超えた何か。
映画を見た観客が男性ならば、他人事ではないと思ったはず。
最初は、映画に描かれたギャグ、まさにフェイクドキュメンタリーと思った。
とても実話と思えないバカげた話だが、本当に実話らしい。確かめようがないが。
実話だとしても、自分自身に振り返るとあり得る話だと思わざるを得ない。

大きさ自慢、何人斬り自慢というのは自らの欲望のなのか、自らを超えた何かのなせる業なのか。
フロイト派あるいはラカンの精神分析の発想では僕たちの無意識は社会によって編まれ、
言語的に構造化されている。
それは単に規範、社会の型どおりに動くということではなく、もっとダイナミックな概念。
欲望そのものがその人に帰属していないと言っている。

黒沢清監督が最近カンヌで話題になっているが、97年のときの映画「CURE」で再び受賞している。
催眠誘導を通じて人を次々に理由なき殺人に追い込む萩原聖人が演じる間宮という医大生が出てくる。
彼の言葉が特徴的で「あんたは誰だ」と口癖のように言う記憶喪失の男。
例えば「あんたは誰だ」と聞かれて「渋谷署の宮台だ」と答えると、
「わかってねぇなぁ。渋谷署の宮台、あんたは誰だ」と再び聞く。
映画全体の仕掛けの中で出てくるのは他者の欲望の話。
他者の欲望をパラフレーズすると以下。
あなた自身を動かし、しかし、あなた自身が制御できない、
あなた自身をあなた自身にとって不快な得体のしれない存在にしているもの。

それが他者。つまり、社会ということ。
もっと言えば、言語的に編まれた何か。
それは最早、人に帰属していないという発想になる。

それを考えると、ペニスなるものがなぜ男にとって特権的であるのかと言えば、
男の本能に帰属できる欲望というよりも社会的に編成された欲望の体系だとわかってくる。

ラカンでは性愛な世界、エロス的な世界は想像的なもの(イマジナル)で、
言語以前的なトランスや雰囲気、オーラ、流れ、そうしたものの渦巻き。
それに対して、言語的に編まれている無意識の世界、他者の世界、
これは象徴的なもの(シンボリック)と呼ばれている。
イマジナルに対して、シンボリック。

年の差であること、植民地の宗主国と植民地の商人であることや
僕たちが言葉、概念言語を使って理解、了解するような何か。
これ象徴的なもの。

僕たちの社会ではエロス的なもの、つまり想像的なものは
概念言語的に形成された規範によって、方向づけられ、規制され
場合によってはねじまげられ、そこに外傷的なトラウマチックな体験も生じる。

そのトラウマチックな体験を描いているのが、この映画だと言える。



ジャン・ジャック・アノーはヌーヴェルヴァーグ的なものを継承しようとした人で知られている。
彼の作品の中でもよくできたものと思う。

やはり、映画はオーラや雰囲気とか言語化できないものの渦巻きを描くのが非常に得意なメディア。
言語的に流せるものだけを描くとすれば映画としては可能性を尽くしていない。

アノーの映画は原作の持っている可能性を、
イマジナリーなもの、想像的なもの、エロス的なものを
可能性に満ちていればいるほど、言語的に編成された社会の中で傷ついていくという
トラウマティックな体験を非常によくうまく描いている。



最近のSF映画の中で「コングレス未来学会議」と「スキャナー・ダークリー」の二つの映画を紹介する。
「コングレス未来学会議」は8月で東京でも上映されていたが、短い期間で打ち切られてしまった。
最近のみならず過去数十年のSF映画の中でも最高傑作と断言して間違いない。

アリ・フォルマンという有名なイスラエルの天才監督が作っている。
実写とアニメーションの二つの世界から構成されている。
前の作品が有名な「戦場でワルツを」という作品。
イスラエルが関与したレバノン大虐殺という歴史的な大事件があって、
アリ・フォルマンがイスラエルの兵士として現場にいた。
ところが、その体験がトラウマティックが故に記憶を失っている。
現場で何があったのか思い出すことができない。
アニメーションという形をとりながら、実際に関係者に次々会っていって、
自分が記憶を喪失したその現場に何があったのか確かめようとする。
映画の製作を通じて、段々と思い出していく。
最後に、ほとんど思い出すというところで
アニメドキュメンタリーがそこから先に実写となる。
痛々しい、苦しい作品。
この作品を見た人であれば「コングレス未来学会議」はわやりやすく、見やすい作品。

「惑星ソラリス」「ソラリスの陽のもとに」で有名なポーランドの有名なSF作家の
スタニスワフ・レムが1960年代前半に書かれた原作を基にしている。

要は社会がクソ。
生きるに足らないものになったので、人々はそれをドラッグとアニメが出ていたが、
拡張現実、ITが作り出すビジョンの中を生きるようになる。
それによって、エロス的な、目眩的な、トランス的な、雰囲気的な、
そうしたものの中をフワフワと漂うに生きている。

主人公のロビンという女性は女優の実名(ロビン・ライト)。
端折ると、ある事件があって、難病の息子と生き別れになってしまった。
その生き別れになった息子を拡張現実の中で一生懸命探そうとして、
最後は拡張現実の外側に出て行って、そこで訪ね当てようとする。
実際にはうまくいかないが、そこはあまりにも重要なネタバレになるので見ていただきたいところ。

原作は最早、夢と現実の区別がつかなくなった社会。
映画では例えばすごくみすぼらしい恰好の人たちがさまよっている姿が描かれるが、
これが拡張現実のクスリとITのビジョンを外した現実。
マトリックス的なモチーフだと考えてもいい。

繭の中で夢を見ている、その繭を壊すと見えてくるものは何なのかということが描かている。
原作においてはそれもまたビジョンとして、全部、ニワトリ卵的な、
あるいは永久の螺旋運動のようなものの中にすべてが巻き込まれていて、
何が現実なのかをまったく訪ね当てることができない状況が描かれている。

映画では前半は原作とまったく違っていて、監督オリジナルのストーリーで、
先ほどのロビン・ダイトがスキャンをしてITの世界、ビジョンの世界に入っている。
後半はある程度、原作に忠実で、アニメパートになる。

それでもやはり単なるビジョンではない、現実というのがあるはずだと、
そうしたものを訪ね当てようという意欲をなくせば我々は倫理を失う、と。
自分勝手な夢を見ていたら、誰かを助けるというのはできない。
誰かを本当に助けようと思ったら、たった一人で夢の外に出て
システムの本当の働きを見極めて、場合によってはシステムを壊したりしないといけない
という話。

アリ・フォルマンは「戦場でワルツを」の映画の流れがある。
倫理にコミットしようとする。
しかし、「コングレス未来学会議」のラストはうまくいかない。
結局、現実で息子に出会って再会して息子を助けるという役割を取り戻して
二人で生きていくという体験もまたビジョンの中で探すしかないとして最終的には終わる。
非常に重たい映画。
2,3ヶ月したらDVDになるので、ぜひ見てもらいたい。
おそらく、日本人の映画監督でこれに匹敵するようなものを作れる人はほとんどいないだろう。
非常に重要な倫理、責任という概念に満ち満ちた作品。

ここに挙げていないが、九月上旬に打ち切られてしまった押井守の
「東京無国籍少女」という作品がある。
これにも重要なモチーフが描かれている。

押井守は「うる星やつら2」「ビューティフルドリーマー」という1984年に撮った作品では
文化祭の前夜の夢が永久に続けばいいなあと描いていた。

「アヴァロン」という実写作品でもクソな社会を生きるよりも
バーチャルに構成されたある種のユートピアに永久に生きる方がいいやという
現実より夢を生きようというモチーフ。

前作の「スカイ・クロラ」では夢は所詮クソで、夢も地獄というビジョンを描き、
今度の「東京無国籍少女」ではその夢を破壊しよう、永久に夢にまどろんでいる奴をつぶそう
という呼びかけに変わっている。
押井守が「スカイ・クロラ」の制作の直前から極真空手を始めていて、
彼が身体性を取り戻したというのが根っこにあると思う。
やはりまどろんでいては誰も助けられないというモチーフが背後にあるだろう。

2012年公開の映画「スキャナー・ダークリー」があり、「暗闇のスキャナー」が原作で映画化したもの。
あまり知られていない作品。
キアヌリーブスが主演だが、奇妙な映像。
フィリップ・K・ディックは重度なコカイン中毒者だった。
それが一つの原因で早く亡くなった。
この作品は晩年の作品で、自分自身のドラッグ体験をベースにして書かれているとカミングアウトしている。
自分と同じようにドラッグにハマって、自分はたまたま助かったが、
たくさんの仲間たちが狂ったり死んだりした。
その仲間たちに捧げると映画にも出てくる。

実写のフィルムをベースにして、アニメ的に上書きをしている。
それは映画を見ればわかると思うが、ドラッグ体験を映像化するというのはなかなか難しい。
一回、アニメ的なオーバーレイをかぶせることによって、体中から虫が湧いてきているという
様々なビジョンを加工しやすくすることができる。
非常にハイパーなリアリスティックな、ハイパーリアル感がある作品。

今は禁止薬物に指定されているリタリンというのがある。
昔は禁止ではなく、見沢知廉はリタリンが原因の妄想で転落死し、
今では国際ジャーナリストの人がリタリンで精神病院に結構長く入院していたり、
リタリンでもあまり良くない運命を辿ることになっている。

キアヌリーブス演じる麻薬捜査官が自分自身が麻薬にハマっていく、
どうしてハマっていくのかというストーリー的な説明で明かすことはないが、
気分としてわかるようになっている。
なんとなく、すべてにクソ感がある。

これはある種のそういう体験がある人にはわかりやすいことだが、
精神に高揚感をもたらすクスリをやり始めたころは、普段はこういう感じだとして
クスリを飲んだときに高揚する。
素晴らしい輝き、躍動感に満ちた、クリアカットでダイナミックな世界を生きられる。

クスリを接種するうちにそれが続かなくなる。
どっちがノーマルで、どっちがスペシャルなのかが逆転して
クスリが入っている状態がノーマルになり、クスリが切れた状態があまりにもクソなので耐えられない。

つまり、クスリが与えてくれる体験が素晴らしいからクスリを接種するというのではなく、
クスリの切れたときの世界があまりにもクソなので耐えられないというように
体験の構造が変わっていく。

「スキャナー・ダークリー」はそのビジョンが描かれている。
同時に我々に訴えている。

現実がこのようなものだと思っているとすると、
クスリをやるようになって、反復的にある程度服用した段階で、
この現実を見ると、今よりはるかにクソな現実として体験する。

その意味で現実とは何なのか。
現実をどのように体験できるのか、
という問いは、ある意味どうとでもあり得る主観的なものと言えるし、
例えば、クスリとかあるいは脳内環境を変えるとかによって現実感覚を
如何様にも変わると言うこともできる。

何をするとどういう風に現実感覚が変わるのかというと、
あらかじめ決まっている、非常にチャチなものだとも言える。

「スキャナー・ダークリー」自体の映画な構造は押井守の「スカイ・クロラ」と非常に似ている。
出口だと思ったことが出口ではなくて、すべて内側だった、と。
麻薬を取り締まる役所があって取り締まられた人間が厚生施設に入れられるが、
懲役労働すると、その懲役労働の中身がもっと蝕んでいるというクスリの基になる花を栽培する
という形で終わる。
見て憂鬱になること間違いない作品。

衝撃受けるのはフィリップ・K・ディックはこんな暗い世界を生きながら、
数々の驚くべき作品、例えばブレードランナーの原作などを生み出している。
よくここまで精神活動をできると驚かされる。



この世界というのはクソ。
何かとペニスや何人斬りにこだわったりとか、そういうことに象徴されるような
何それがお前のやりたいことなのみたいな、お前の人生ってそれで完成するのみたいな、
そんなショボいことなのみたいな。
そういうショボい僕たちの意識世界が社会を作り出している概念言語で編まれている。

ここに描かれているすべての作品に共通するのが、この社会にはユートピアはないし、
どこまで行っても概念言語によって編成された社会に閉じ込められた僕たちの意識は
クソのクソ壺が外に出ることはないということ。

今世紀に入って、それが映画表現の基本になった。
映画の世界は小説の世界よりも時代の空気に敏感に反応するところがある。
その意味では外側だと思えたものが全部内側だし、それが全部意識だし、
意識は僕たちの努力によってどうにもならない、社会的、概念言語的に編まれたものに過ぎず
どうしようもないというビジョンが繰り返し繰り返しいろいろな映画で描かれている。

日本は相変わらず恋愛的経験値の低い人たち撮った、
映画学校的恋愛映画とかがあったりして、大体漫画原作が特徴。
お前、目が付いているのかという作品ばかり。

目をつぶって撮っているから、ある種、良い映画だったねぇとデートのネタになる
ような映画が作れるとも言える。
真面目に映画を撮っている人間たちが作り出しているビジョンはますます暗いものになっている。
そのような映画をわざわざ見てください、「スキャナー・ダークリー」を見てください、
「コングレス未来学会議」を見てください、と。

決してデートのネタにしないでほしくて、何の会話をしていいかわからなくなるはず。

映画というのは元々、そういうものだった。
もっとプライベートで、もっと特別で、アートに近いものだった。

リクリエイション、まさに元に戻るという意味だが、
アートはそうではなくて、今まで生きたように生きられなくなるというニュアンスを元々持っている。
映画は今まで生きてきた生き方、感じ方を変えずには前に進めないという状況に追い込む、
元々そういうものだった。

テレビは日常を変えたくない人、リクリエイションしたい人が見ればいい。
映画館というのはそれと違う特別な体験を与える場所ではないのか。
あえて、このような映画を見て、思いっきりドツボに落っこちてもらいたい。



今、地球物理学や宇宙物理学ではパンスペルミアが実は主流化している。
1994年と2012年に、最初はインドに赤い雨が降って、次にスリランカで赤い雨が降った。
赤い雨の正体は35億年前の原核細胞生物。
遺伝子が丸々生き残っている。
一旦、35億年前に宇宙に出た原核細胞生物が地球に戻ってきた。
あるいは原核細胞生物はあまりにも原始的なので、別の惑星系から飛来した可能性もある。

いずれにしても宇宙空間に細胞が生きることができる、
生命圏の外側で生きることができると証明された。
誰も想像していなかったこと。
生命保持、スペルミアという光の圧力、光に準じた速度で飛ぶのでどこまでも行ける。
従来、宇宙にいると考えられていた生命、あるいは生命の存在する惑星は今までの想定より
桁違いに数が多い。何桁も数が多いくらい。
当然、知的生命体の存在も奇跡と考えられていたが、知的生命体もおそらく溢れるくらいいるだろうと
一挙にこの数年で考え方が変わった。

理科で習ったオパーリンの生命スープ説、
コロイド状の海にメタンガスが満ちていて雷鳴がとどろき、光のエネルギーでタンパク質が合成される。
これはあり得ない。
それが起こらないとは言えないが、起こる確率は確率論的に物凄く低い。
それだったら、生命胞子説の方が正しいということで、
オパーリンの生命スープ説はほぼ完全に否定されている状態。

この話は誰も知らない。
僕たちの世界観にあまりにも抵触してしまうので、新聞や雑誌もなかなか書けない。
非常に重要な問題である。
日本の松井孝典さんという地球物理学者がいて、パンスペルミア研究の第一人者。
最もらしい宇宙の創造に関する議論というのはスーパーストリングセオリーという超弦理論で、
十の弦のうちのたまたま四つがこの宇宙でたまたま支配的になったというもの。
たまたま支配的になったのはアインシュタインの言葉で言えば
宇宙定数の値がたまたまある値に定まったからということ。
宇宙定数の値が例えば何千、何万桁、小数以下の何万桁の値が1個変わるだけで
この宇宙はできなかったということも計算上証明されている。

しかし、人間原理というのを聞いたことがあると思うが、
この宇宙は人間のような知的生命体を誕生させるために作られたという議論が今、実は主流になっている。
目的論というのは昔、あり得ないと言われていた。
もし、物事がすべてランダムに決まるとすれば、宇宙定数の組み合わせから
この宇宙ができる可能性は何兆分の一である。
何兆分の一のものが存在すると考えるとすると、例えば壁に突進して壁を抜ける可能性も何兆分の一ある。
そういうものは偶然できたと考えるのはバカバカしい。
目的があってできているだろう。
最先端の物理学者の松井さんもそういう議論を支持している。
松井さんは全然、明るい。
それだけたくさんの知的生命体が地球にいるのに、どうして出会えないなのか。
距離が遠いからか。いや違うと答える。
知的文明がすぐ滅びるからだ、と。
結局、パンスペルミアを観測し、分析することができるぐらい科学技術を発達させた文明は数百年で滅びる。

資本主義がなければ科学は発達しない。
資本主義というのは競争的で、全体性よりも部分を簡単に言えば尊重し、
場合によっては2045年問題に象徴されるように
例えば人間よりも人間的なコンピューターを作ってしまったりして、
そのコンピューターが自分たちよりも人間性において劣る存在を抹消しようと
考えたりする可能性がある。

松井さん曰く、人類は数百年どころか百年も持たないだろう、と。
彼のいろいろな分析からそうなのだが、彼は明るい。

泡だ、と。
知的生命体が泡のように生まれて、泡のように消えていく。
人類もまもなく消えていくだろうが、その代わり、生まれてくる知的文明も山のようにある。
泡のように生まれて、泡のように消えていく。
その流れが定常、コンスタントに存在するというのが人間原理でこの宇宙の作られた目的。
もし万が一くらい知的文明が滅びずに生き残るとすれば、
それをスクリーニングして選び出すのが宇宙の原理の目的なのではということも仰っている。

これはなぜ明るくなれるのかというと、
クソぶりは人類だけなく、知的文明すべてが同じようなクソに直面してダメになっていくから。
よく言う、ウチらだけじゃないよ、貧乏の家はみたいな。
みんな貧乏だ、と同じで救われる感じで、
知的文明はみんなクソで滅びていくんだ、ウチらだけじゃない、と。
ウチらは孤独じゃない。
火星も滅びたと言われている。



■質問1
日本映画について質問したい。
ここに挙げられた映画が日本で生まれてこないというのが気になる。
昔ならば結構あったと思う。
映画を観る前と観た後で価値観が変わるような映画は昔は結構あったが、
2000年後半くらいからそういう映画はなかなか出てこなくなったのではと思う。
その原因として、海外の監督と日本の監督の決定的な違いは何なのか。

■回答
今、唯一残っている映画批評雑誌で「映画芸術」がある。
一回つぶれたが、寺脇研さんのお金で脚本家で有名な荒井晴彦さんが編集長になって復活した。
そこで同じ質問の討議が為された。
僕の答えは「低学歴したから」で、物凄く反発を買った。

昔の日本の映画の監督は東大、京大、早稲田、慶応など学歴と言えば物凄く高かった。
こういった人たちは元々、映画監督になるつもりはなかった。
周りにキャリア官僚がいれば、政治活動家もいれば、政治家もいれば、科学者もいれば、
いろいろな人間たちが自分のネットワークにいるような
そういう人間たちが映画を作って、脚本も書いていた。

今、日本の映画を撮っている人間たちの多くは映像の映画専門学校の出身で、
残念ながら彼らの持っているネットワークは非常に小さい。
人一人が社会全体を観察するのはできなくても、
ネットワークで社会全体を観察することができればよいのだが、
それさえもできない状況にある。

そこには制作システムの問題があって、日本の場合はテレビドラマと同じやり方。
つまり、日本だけ制作委員会方式。
リスクをヘッジするために、五社、十社と資本を出し合って
シナリオもない状態でキャストを押さえる。
AKBの誰と誰と、あるいはジャニーズ系の誰と誰を押さえて、
誰を押さえられたかが決まると、これで話を作ろうと企画会議を行う。
学校を舞台にした恋愛ものにしようとかで脚本家に投げて作らせる。
テレビと同じ作り方で、日本以外でそういう作り方しているところはない。

アメリカでも韓国でも、基本シナリオが作られると
プロデューサーを呼んでGOサインを出したりしない。
自分のところで持っておいて、別の脚本家に渡す。
面白いアイデアで、全然これではダメだから書き換えてくれないかと言って、
書き換えてもらって書き換えてもらって書き換えてもらって
何回か書き換えた状態で行けるとなればGOとなる。
そのとき、クレジットされるのは最後のリライトした人だけという場合もある。
その場合は金で解決。
そうでない場合は共同脚本として名前が数人クレジットされる形になる場合もある。

何人もの知恵がそこに入ることによって、
知識社会化された状態で映画制作が為される。
人間的なネットワークも知識社会化されている。
日本もかつてはされていた。

シナリオについても日本の場合は知識社会化されていない。
かつてはされていたか。されていた。
かつてのシナリオライターは非常に高学歴。
高学歴の意味は今とは違う。
政治運動の経験がある、いろんな経験がある、いろいろなネットワークがある、
そんな人間たち。

僕も学歴が高いかもしれないが、フィールドワーカーとして頑張ろうと思って、
ヤクザにケツ持ちしてもらいながら風俗産業とか見るわけだが、
そういうのは上の世代を参考にしてやった。
上の世代がやっていたのだからオレにできないはずがない、と。

社会学、ルポルタージュの世界でも、僕らのやっていたようなことを継ぐ人が出てくるかというと
映画の世界と同じで出てこなかった。

安全圏でポジショントークするのと同じで、
安全圏でポジションワークするような人たちが大勢いる。
これが原因。



■質問2
クソ社会と仰っていたが、
宮台真司氏を知ったのは二十年前でそのときはこの社会はウソ社会だとそういう言説をしていた。
とても新鮮な新しい人が出てきたと思って聞いていた。
今もそういう点はどう思っているのか。

■回答
ウソ社会からクソ社会へというのは僕のスローガン。
結局、ウソ社会に留まっていなかった、と。
ウソだろうが真実だろうが何でもいいが、クソみたいな感じ。
そのことに関してWebサイトにいくつか載せている。

メルツバーグというノイズミュージックプロジェクトとコラボレーションCDを出す。
そこになぜ日本だけでなくこの社会全体がどんどんクソになるしかないのか、
人々の感情はどんどん劣化するしかないのか、その必然性を書いている。
その世の中で生きる方法は世の中全体を変えようとしても流れとして難しい。
それは相手がシステムだから。

そこで進化論の最近の学説などに目を向けて、
日本全体、人類全体をどうしようという考えを一回置いて、
自分の周りにいる自分の大切な人間たちを生き残らせるためにはどうすればよいだろう。
自分にとって大切な人間たちに幸せになってもらうにはどうしたらいいだろう。
というようにマクロなデザインを放棄して、ミクロなデザインにまず集中するのが重要だと思う。
ソーシャルデザインが社会を設計するという観点からも。

もちろんマクロでも設計できるが、設計通りにマクロはもう動かない。
グローバル化が進んでいるから。
ミクロ構想、風の谷のナウシカ方式をやるしかない。

ウソ社会と言うときにはまだマクロ構想に実りがあり得て、
社会全体をなんとか良い方向に向かわせることができるのではと思ったときの言葉。
クソ社会は何をやってもマクロではダメ。
先進国全体、日本全体で言えば、まったく良くなる気配がない。
むしろ逆で悪くなるだろう。
それはほぼ確実だとして、それでも前に進むことができるための力を
どこからどう獲得すればいいのかという、そういう問題設定自体がクソ社会を生んでいる。



■質問3
クソ社会なのに宮台真司氏は子供を産んで育てているが、
クソ社会だったら子供がかわいそうではないのか。
どうして、そのような実践しようとしたのか。

■回答
自分の周りにいる大事な人間を不幸に陥れさせない、そして幸せにする。
それに向けて、エネルギーの大半を集中する。
そういう決意をしているからだと思う。
マクロではないミクロな努力であればいくらでも実りがあるだろうと思う。



辛酸さんの漫画、フィールドワークは映画「最後の1本」的な方向性。
クソというのはいろいろな見方があって、クソの一つの表れに滑稽がある。
あるいはトラッシュ系という言い方もある。
面白おかしいゴミ。面白おかしいゴミ拾いをする。

世の中、とんでもない現象がいっぱい溢れている。
怒りを持って接してもいいが、怒っているだけでは疲れる。
お笑い、つまり映画「最後の1本」的なものだとして、
ウヨブタを見るとか、安倍晋三的なものを見るとすると、
所詮人間はこんなものかもしれないとちょっと許せる気持ちにもなる。
逆に僕たちはつぶれずに先に進める。