映画「牡蠣工場」舞台挨拶、トークイベント

2016年1月23日(土) KBCシネマ(福岡県福岡市)
映画「牡蠣工場」 舞台挨拶、トークイベント
出演:想田和弘監督


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今日、「牡蠣工場」はKBCシネマで日本で初めて一般公開された。

この映画を観た方、予告編を観た方の中に、
中国人実習生の問題、東日本大震災の傷跡とかテーマが先にあって、
そのテーマを描くために牡蠣工場を探し当ててそこに辿り着いたと見られてしまうが実は違う。

まったくの偶然で、カメラを持って牛窓に行ったときは牡蠣工場を撮る予定ですらなかった。
では、何故、牡蠣工場にカメラが向くことになったかというと妻の母親の故郷が牛窓だった。

よく牛窓には遊びに行っており、ここ数年は妻の母親の同級生のお家の離れが空いているので
そこを使わせてもらって夏休みを過ごしたりしていた。

浜辺とかで妻が太極拳をしていて目立ったせいか、漁師さんたちに話しかけられ、
そうしているうちに漁師さんと仲良くなった。
その漁師さんたちは70代、80代だった。
後継者もおらず、魚も減っているという。
もしかしたら、牛窓という街から漁師さんがいる風景が、
僕らが当たり前と思った風景が消えてしまうのではという気がした。

もし、そうだとしたら全国的に言えることではないか、
牛窓でそうだとしたら日本全国で起きているのではという気がした。
日本は海洋民族で、海に囲まれていて、水産物と漁業に関係の深い
国民性だと思うが、その漁業をする人たちが沿岸から消えてしまう、
その前に記録しよう、あとよく見せてもらいたいということで
漁師さんにカメラを持ってお邪魔したいとお話しした。
それが夏で、実際にカメラを持って行ったのは11月。

その漁師さんはタコ漁をしていたのだが、実際に行ってみたら、
今はタコではない、牡蠣の漁だ、と。
そのときは知らなかったのだが、牡蠣工場を持っていて、
牡蠣を剥く作業が11月から始まり、今がちょうど忙しく、
牡蠣工場でよければどうぞということで撮り始めた。

ここに中国人の方がやってくるとか、漁師の方が宮城出身だとか
まったく知らず、カメラを回して追ってみたらこうだった。

カレンダーに「中国来る」と書かれていたのが大きい。
自ら観察映画と言っているように、そこにあるものをよく見るようにしている。
カレンダーを見ると、11/9(土)に「中国来る」とメモ書きされていた。
これは一体何だろうと思って、会話に聞き耳を立てていると、
二人の中国人労働者がやってくるのが11/9(土)ということだった。
みんな、不安と期待が入り混じってピリピリしていた。
どんな人が来るのだろう、どういう風に打ち解けよう、と。

ここでまた中国に出会うとは思わなかった。
その直前に中国に映画祭で行ったりしていた。

グローバリズム、国際化というキーワードで語られるような現象がそこに起きていた。
牛窓はかつて非常に栄えた町だが、今ではどんどん人口が流出して過疎化が深刻。
労働者がいなくなっていて、働く剥き子さんがいなくなったので中国人を呼んでいる。

過疎化していく古い古い町というのと、グローバリズム、国際化というキーワードが
僕の中でまったくつながらないのだが、
実はよく考えると、過疎化が進んでいるこういう町だからこそ、
グローバリズムといった現象の最前線があると気が付いた。

広島で牡蠣工場で殺人事件が起きており、その事件が記憶に新しい時期で
中国人労働者が来るときに途中で撮らないでくれと背中を向けて言われ、
抗議されたときは本当に焦った。
そのときは広島の事件はまったく知らなかった。


僕は観察映画の十戒をもっている。
・被写体に関するリサーチを行わない。
・被写体と撮影内容に関する打ち合わせは原則行わない。
・台本は書かない。作品のテーマや落としどころは撮影前や最中に設定しない。
 行き当たりばったりで撮影し、予定調和を求めない。
・カメラは一人で回し、録音も一人で行う。
・必要ないかもと思っても、カメラは長時間あらゆる場面で回す。
・広く浅くではなく、狭く深くを心がける。
・編集作業でもあらかじめテーマを設定しない。
・ナレーション、説明テロップ、音楽を原則使わない。
・観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し余白を残す。
 その場に居合わせているかのよう臨場感や時間の流れを大切にする。
・製作費は基本的に自社で出す。
 金を出したら、口を出したくなるのが人情。
 ひも付きの投資は一切受けない。
 作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはあり。

今回も牡蠣工場を何も知らない状態でカメラを回している。
何故そうするかというと、先にリサーチして知識を仕入れてしまうと
それが自分のバイアスとなって知っていることばかり撮ろうとしてしまうため。


映画を撮る前はNHKのドキュメンタリーを撮るテレビディレクターをしており、
40本から50本ほどテレビ番組を撮った。
まさにそのときはリサーチをするのが当然ということで、
被写体と打ち合わせを重ねて、何が撮れて何が撮れないと全部把握して台本を書く。
ひどいディレクターになると、起承転結が最初から最後まですべて決まっていて、
エンディングまで決まっており、誰々が何を言うと取材対象者のセリフまで書き込まれている。
ナレーションも書いているので、その台本を持って取材に行く。

その台本はプロデューサーと一緒に詰めており、
プロデューサーがそれにGOサインが出ないと撮影に行けない。
しかも、プロデューサーは一人でなく、その上に何人もヒエラルキーがあり、
そこを全員通している。
だから、台本を逸脱することはすごい大変。

ドキュメンタリーは台本通りに展開するわけがない。
行ってみたら、必ず違う現実が展開している。
展開している現実の方が面白い。
そこで面白い現実を撮って帰ると、そうするとプロデューサーからものすごく怒られる。
何故台本通りに撮らないのか、オレはこんな番組を承認した覚えはない、と。
プロデューサーの立場からすればそうかもしれないが、
ドキュメンタリーだから違うものが撮れて当たり前。
それが通らないということで理不尽さを感じて、リサーチや台本はいらないとずっと感じていた。

これはNHKだけでなく、他局もそう。
日本だけでなく、他の外国もそう。


ドキュメンタリーは映像による日記という位置付け。
牡蠣工場は一週間だけ撮影した。
一度撮影を断られたシーンが出てきたが、あの翌日にもこの辺で止めてほしいと言われた。
新しいことを始めたというときで、不安がある上に
僕らがいるということは不確定要素が二つになったため。
撮れるものは大体撮れたので、牡蠣工場の撮影は一週間で終えた。
一週間とはいえ、毎日朝から晩まで牡蠣工場に入り浸るというのは普通できないこと。
アウトサイダーながら、その中でいろいろな人に会い、
いろいろな場面を目撃し、いろいろな話を聞いた。
その体験を映画的リアリティーに構築し、それを観客と共有するのが
僕がドキュメンタリーを撮る目的の一番大きなもの。

自分は牡蠣工場の世界はこんな風に見えたということを
観客と共有して疑似体験、追体験してもらいたい。


実は牛窓には三週間撮る予定で行った。
一週間で断られたので、あとの二週間はぷらぷらしようと
カメラを持ってうろうろしていたら、86歳の漁師の方と出会った。
70年間漁をしている方で、小さい船を持っていて今でも漁をしている。

ずっと漁をしていたせいかヨボヨボ歩いていて、
本当に漁に行って大丈夫かと心配になったくらいだったが、
実際に一緒に漁に行くとシャキッとなって物凄かった。

残りの二週間はその漁師の方、村にいるお婆さん、魚屋さんも撮った。
それも含めて一本の映画にしようとしたが、
牡蠣工場だけで一本に立たせたら面白いと、別々の二本にした。
もう一本は編集中。

僕の映画は情報を伝えるジャーナリズムとは違う。
映画というのはスリルとサスペンスという縦糸みたいな次を見たいと思わせる部分があり、
一種のドラマとして構築していくという意識はある。

メッセージはない。伝えたいことは僕の体験で、文字で書けるようなことではない。
だから、映画を作っている。
普段はいろいろ言語化し、文字にしていることをやっているから
それを探す方も結構いるかと思うが、映画ではメッセージのことはまったく考えていない。
描写をして自分の体験を共有して、
あたかも牡蠣工場の世界に放り込まれた体験をしてもらったときに
その体験から何を思うかは一人一人違う。百人いれば百人違うはず。
一番つまらないのはすべてメッセージに従属している映画。


311の東日本大震災、原発事故が起きる前までは政治的発言は控えるようにしていた。
政治的発言をしていると「選挙」という映画は色眼鏡で見られる。
例えば、自民党を陥れるために作ったんじゃないか、と。
あと、考え方が真逆の人が映画を観てくれないのでは、と。
政治的発言はしないようにして避けていた。

東日本大震災が起きて、原発の事故の様子をニューヨークで見ていた。
もしかすると帰ることがなくなるのではと思った。
東日本にもしかしたら住めなくなるという最悪のシナリオもあって、
東京放棄もあり得る状況だった。
幸いにしてそうならなかったが、そうなる可能性はあった。
そのときに自分の映画がどう見られるかどうでもよくなって、
感情的にいろいろとツイートし始めた。

その結果、雑誌とかに寄稿の依頼があり、いろいろと記事を書いたが、
映画を撮っていることも知らない人も出てきたぐらい。


海外で公開する際、瀬戸内海の片隅にある小さな牡蠣工場という半径1kmくらいの世界を撮って、
日本を全然知らない海外の人たちが見たときにわかるかなあ、伝わるかなあと思った。
あまりにもローカル過ぎる世界。
映画をあまり観ないアメリカ人の友達に見せたら、2時間半ずっと飽きずに観ていた。
それを見て、全然大丈夫と思った。

中国人が5日で辞めたという話が出てくるが、
ニューヨークでも同じようなことが毎日起きている。
レストランに入れば、そこで働いているのはメキシコ人、中南米の人。
外国人の労働者がいなければ、成立しない生活になっている。
スイス、フランス、モンテロールとかに行ってもそう。
みんな自分たちの問題として見る。

こんな小さなところにカメラを向けているのだが、
そこにもっと大きな世界の話があり、もっと普遍的なものが
世界のエッセンスというのが見える。

考えてみたら、当然。
牛窓も他の世界から隔絶されているわけではなく、世界の一部分。
必ず世界の力学の影響を受ける。
僕の理論は「世界は細部に宿る」。
何故かというと細部は世界の一部分なので世界の影響を受ける。
世界の構造の縮図が大体、細部に宿る。
狭く深くを心がけると言ったが、
小さい領域を深く見ていけば必ずそこにもっと大きな世界の構造、エッセンスが
映り込むはずだという確信はある。

明星和楽2015 TAKUYA トークイベント

2015年11月15日(日) 明星和楽2015(福岡県福岡市・岩田屋本館前)
出演:TAKUYA (元JUDY AND MARY ギタリスト)


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ここ10年でネットで何でも聞けるようになった。
通信速度やPCの性能が上がってきて、MP3のような軽いデータだけではなく、
もっと重いデータでも通信で聞ける時代がまさに来ている。

ハイレゾ音源、ハイレゾ通信という言葉が世の中に出てきて、
ハイレゾは音がいいと言われている。
確かにそうだが、実はハイレゾでレコーディングしたり、演奏したりするにはものすごく技術がいる。

しかし、今までMP3のような5MBになるからと
日本中だけでなく、世界中のミュージシャンがさぼってきた。
いざ、ハイレゾとなったときに出口のヘッドフォンばかりが進化して、
ヘッドフォンを作っている人はハイレゾは良い音でしょと言うが、
ハイレゾに対応できるミュージシャンはいない。

あなたたちは永遠に昔録った旧譜をハイレゾの良い音にして聞き直すつもりなのかという状況。
来るべき時代に、ハイレゾに対応できる設備をまず作って、
音楽の本来のところを盛り上げる必要がある。



そこで、福岡にてスタジオ建設を進めている。
福岡は立地的要因も含めて可能性がある。
以下、東京と福岡の比較。

■東京
・家賃が高すぎる。
・移動時間がかかりすぎて、終電を気にしないといけない。
 レコーディングの際、町田とか来ていたら、早く帰さないといけない。
・長い時間バイトして家賃払って、移動時間も取られていたら、
 音楽に割く自由な時間が取れない。

■福岡
・家賃はびっくりするほどは高くない。
・移動時間がかからない。
 天神からも遠くない場所にすべて固まっている。
 終電も気にしなくていい。
・都市部なのでバイトにも困らない。
・東京と比較しても自由な時間を確保できる。
・空港も近い。

アジアへのハブ拠点として活動しやすい福岡でスタジオを作って、
国際的に活躍できる場所を作りたい。
世界中で活躍しているすごいアーティストが仕事しに来たいという街になるべき。



中国の大スターとかあの人口の上で映画とかを作っているので、
日本のテレビスターの比じゃないビックなスターがいる。
その人たちがどこにレコーディングしに行っているかというと、
未だにロンドンだったり、ニューヨークだったり、LAだったり。
中国でなぜやらないのかというと、お金があって機材を買えても、使える人材がいないため。
使い方がわからない、壊れたときの直し方がわからない。

ポップカルチャーというか、この何十年か歴史を紅白歌合戦と共に積み重ねてきた日本には人材がいる。
どんなにお金を出しても、スタジオを作っても、いろいろなお国柄の事情があって、
電源供給が安定するのか、鼠が線をかじらないのかとかのいろいろな問題がある。
日本は信頼がある方である。
「良い仕事場になる。ここ最高の現場だ。LAまで行かなくていい。アジアにあった。」
を作ることが大事。

ビジネスで言うと、良い客はアジア中にたくさんいる。
音楽業界で向こうで仕事したりしているが、
実は日本の方がギャラが安い。制作費とか。
向こうの仕事を受注できればまあまあハッピーになれるのではと思う。
受注するにしても、福岡の最新スタジオはイケているらしいぜ
ぐらいのものを作らないとアピールもできない。



昔、ドイツのベルリンはよく行っていたが、
ヨーロッパの中でもロンドンは何にしても高すぎて(東京と同じ状況)、
才能があるけどアーティストをもっとやりたいという人が
壁が崩れて以降、ベルリンに割と集まっている。
ベルリンの方が家賃も安い、環境もいいし、設備も整っている。

それが今の世界の流れになっている。

ヨーロッパはベルリンに集まっている。
アメリカではポートランド、LA、西海岸の方に集まっている。
東海岸が高すぎてニューヨークはダメだということで西海岸に集まりだした。

アジア圏はあまり知られていないが、アジアでその流れは実はインドネシア。
インドネシアには結構良いスタジオがある。
ミュージシャンのロックとかクオリティが高い。
アジアではインドネシアのミュージシャンが一番うまいと言われている。

ただ、インドネシアは南アジア。
アジアの広い中で、北アジアでは福岡だろうと思う。



福岡から東京へ、福岡出身の某バンドですとレビューできると楽しみに上京してくるが、
大した練習できる設備も狭いスタジオとか東京での生活が大変すぎて、
本当はもっと開くはずの芽が東京に行っても開かないというのが今の現状。
そこで、若手は福岡を目指せみたいな風潮、環境になればと思う。

福岡はラーメン屋もいっぱいあって、飯もうまい。
東京では都内でレコーディングが終わって御飯行こうよとなると
頭数数えていくらかかるだろうと言う風になる。
そんな悩みもこの街では気楽にいける。
どんな遠くてもたかが知れている。
タクシーで帰れて、終電も気にしなくていい。

福岡でスタジオを作る上で、先輩のアーティストとかも
東京ダメだと思っているからそっち行こうかなと
いつできるのか、と、実際に期待している人もいる。

良い音で録音できたりするスタジオはイコール良い音を出すことができるので、
ライブ施設と一緒にしようとする話もある。
ときどき開放して借りられるようにするとか、何かのホールと併設して機材をうまく使い回すとか、
計画案がA、B、C、Dといろいろとある。

来年から福岡にまあまあいるかと思う。
スタジオの建設ともに拠点を福岡に移そうと思っている。
東京に働きたいスタジオがない。
例えば、お金のあるプロジェクトとかではスタジオなどいいところ使っていいと言われるが、
東京のスタジオは全部、昭和の時代に作られた老朽化したスタジオばかりで、
使いたいスタジオがない。

唯一、スタジオでイケているところで本当にやれるのなら、ロンドンとかLAとかになる。
そうするとお金の問題ではなく、スケジュールとか時差とかの問題になる。
特に時差が大変で、ボーカルの子とか数日は声が出ない。

アジア圏のスタジオというと、
中国のローカル都市にものすごい体育館くらいの大きいスタジオが
すでに建っているが、機材を金にモノを言わせて買っているが使える人間がいない。

世界中の70年代、80年代、90年代で活躍した有名なプロデューサーとかの人の中に
引退しようと思っている人で、日本が良いらしいよねと思っている人が実際にいる。
そういう人に福岡に良い設備があるので来ませんか、半年くらい来ませんか、
と働きかけるべき。

有名なプロデューサーの下には有名なアーティストが付いている。

有名人にお金を出して、例えばローリングストーンズを呼んで
イベントをやって盛り上がって、はいサヨナラと帰られても何も起こらない。

有名なプロデューサーが出てきたら、それを見ている下は育つし、
そのプロデューサーと仕事がしたいからと有名アーティストがその向こうからやってくる。

良い人が来たら、若手も育つ。
自分も福岡に来たら、どこかの大学とかでちゃんと講義をしようと思うし、
自分の右腕のエンジニアには工業系の学校で講義ができたらと思う。



何か一つ長けた一流の人はみんな面白い人。
そこにまた面白い人が寄ってくる。

アメリカのポートランドとかも元々は何もなかったが、
いろいろなアーティストが集まる街になった。

アジアだけでなく世界中で福岡はイケているらしいよと噂になるくらいにならないとダメ。

BOOKマルシェ佐賀 2015 宮台真司 辛酸なめ子 トークショー

2015年10月3日(土) シアター・シエマ(佐賀県佐賀市)
BOOKマルシェ佐賀 2015 宮台真司 辛酸なめ子 トークショー
出演:宮台真司、辛酸なめ子


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■辛酸なめ子のおすすめ
・書籍「胞子文学名作選」(田中美穂著・編集/港の人)

・映画「愛人/ラマン」(監督:ジャン=ジャック・アノー)
 原作:マルグリット・デュラス「愛人 ラマン」

・映画「最後の1本」ペニス博物館のドキュメンタリー映画


■宮台真司のおすすめ
テーマ「原作と映画の関係」
原作を映画に「編む」ときに、何がどう変化するか、あるいは変化させられるか?

・映画「コングレス未来学会議」(監督:アリ・フォルマン)
 原作:SF作家スタニスワフ・レム「泰平ヨンの未来学会議」

・映画「スキャナー・ダークリー」(監督:チャード・リンクレイター)
 原作:フィリップ・K・ディック「暗闇のスキャナー」

・映画「2001年宇宙の旅」(監督:スタンリー・キューブリック)
 原作:アーサー・C・クラーク「2001年宇宙の旅」

・映画「惑星ソラリス」(監督:アンドレイ・タルコフスキー)
 原作:SF作家スタニスワフ・レム「ソラリス」


フロイト派で有名な精神分析家でジャック・ラカンがいる。
様々な人が映画批評にラカンの図式を利用をしている。

最近、この半年くらい映画批評を再開して、miyadai.comに掲載しているので読むことができる。

映画「最後の1本」は予告編だけだとわからないが、
背後には大きさ自慢、経験人数自慢というのが出てくる。
僕(宮台真司)も他人事ではない。
ジャック・ラカンの有名な言葉に「人間の欲望は他者の欲望である」というのがある。
この他者というのは社会と言い変えてもいいが、得体の知れない人を超えた何か。
映画を見た観客が男性ならば、他人事ではないと思ったはず。
最初は、映画に描かれたギャグ、まさにフェイクドキュメンタリーと思った。
とても実話と思えないバカげた話だが、本当に実話らしい。確かめようがないが。
実話だとしても、自分自身に振り返るとあり得る話だと思わざるを得ない。

大きさ自慢、何人斬り自慢というのは自らの欲望のなのか、自らを超えた何かのなせる業なのか。
フロイト派あるいはラカンの精神分析の発想では僕たちの無意識は社会によって編まれ、
言語的に構造化されている。
それは単に規範、社会の型どおりに動くということではなく、もっとダイナミックな概念。
欲望そのものがその人に帰属していないと言っている。

黒沢清監督が最近カンヌで話題になっているが、97年のときの映画「CURE」で再び受賞している。
催眠誘導を通じて人を次々に理由なき殺人に追い込む萩原聖人が演じる間宮という医大生が出てくる。
彼の言葉が特徴的で「あんたは誰だ」と口癖のように言う記憶喪失の男。
例えば「あんたは誰だ」と聞かれて「渋谷署の宮台だ」と答えると、
「わかってねぇなぁ。渋谷署の宮台、あんたは誰だ」と再び聞く。
映画全体の仕掛けの中で出てくるのは他者の欲望の話。
他者の欲望をパラフレーズすると以下。
あなた自身を動かし、しかし、あなた自身が制御できない、
あなた自身をあなた自身にとって不快な得体のしれない存在にしているもの。

それが他者。つまり、社会ということ。
もっと言えば、言語的に編まれた何か。
それは最早、人に帰属していないという発想になる。

それを考えると、ペニスなるものがなぜ男にとって特権的であるのかと言えば、
男の本能に帰属できる欲望というよりも社会的に編成された欲望の体系だとわかってくる。

ラカンでは性愛な世界、エロス的な世界は想像的なもの(イマジナル)で、
言語以前的なトランスや雰囲気、オーラ、流れ、そうしたものの渦巻き。
それに対して、言語的に編まれている無意識の世界、他者の世界、
これは象徴的なもの(シンボリック)と呼ばれている。
イマジナルに対して、シンボリック。

年の差であること、植民地の宗主国と植民地の商人であることや
僕たちが言葉、概念言語を使って理解、了解するような何か。
これ象徴的なもの。

僕たちの社会ではエロス的なもの、つまり想像的なものは
概念言語的に形成された規範によって、方向づけられ、規制され
場合によってはねじまげられ、そこに外傷的なトラウマチックな体験も生じる。

そのトラウマチックな体験を描いているのが、この映画だと言える。



ジャン・ジャック・アノーはヌーヴェルヴァーグ的なものを継承しようとした人で知られている。
彼の作品の中でもよくできたものと思う。

やはり、映画はオーラや雰囲気とか言語化できないものの渦巻きを描くのが非常に得意なメディア。
言語的に流せるものだけを描くとすれば映画としては可能性を尽くしていない。

アノーの映画は原作の持っている可能性を、
イマジナリーなもの、想像的なもの、エロス的なものを
可能性に満ちていればいるほど、言語的に編成された社会の中で傷ついていくという
トラウマティックな体験を非常によくうまく描いている。



最近のSF映画の中で「コングレス未来学会議」と「スキャナー・ダークリー」の二つの映画を紹介する。
「コングレス未来学会議」は8月で東京でも上映されていたが、短い期間で打ち切られてしまった。
最近のみならず過去数十年のSF映画の中でも最高傑作と断言して間違いない。

アリ・フォルマンという有名なイスラエルの天才監督が作っている。
実写とアニメーションの二つの世界から構成されている。
前の作品が有名な「戦場でワルツを」という作品。
イスラエルが関与したレバノン大虐殺という歴史的な大事件があって、
アリ・フォルマンがイスラエルの兵士として現場にいた。
ところが、その体験がトラウマティックが故に記憶を失っている。
現場で何があったのか思い出すことができない。
アニメーションという形をとりながら、実際に関係者に次々会っていって、
自分が記憶を喪失したその現場に何があったのか確かめようとする。
映画の製作を通じて、段々と思い出していく。
最後に、ほとんど思い出すというところで
アニメドキュメンタリーがそこから先に実写となる。
痛々しい、苦しい作品。
この作品を見た人であれば「コングレス未来学会議」はわやりやすく、見やすい作品。

「惑星ソラリス」「ソラリスの陽のもとに」で有名なポーランドの有名なSF作家の
スタニスワフ・レムが1960年代前半に書かれた原作を基にしている。

要は社会がクソ。
生きるに足らないものになったので、人々はそれをドラッグとアニメが出ていたが、
拡張現実、ITが作り出すビジョンの中を生きるようになる。
それによって、エロス的な、目眩的な、トランス的な、雰囲気的な、
そうしたものの中をフワフワと漂うに生きている。

主人公のロビンという女性は女優の実名(ロビン・ライト)。
端折ると、ある事件があって、難病の息子と生き別れになってしまった。
その生き別れになった息子を拡張現実の中で一生懸命探そうとして、
最後は拡張現実の外側に出て行って、そこで訪ね当てようとする。
実際にはうまくいかないが、そこはあまりにも重要なネタバレになるので見ていただきたいところ。

原作は最早、夢と現実の区別がつかなくなった社会。
映画では例えばすごくみすぼらしい恰好の人たちがさまよっている姿が描かれるが、
これが拡張現実のクスリとITのビジョンを外した現実。
マトリックス的なモチーフだと考えてもいい。

繭の中で夢を見ている、その繭を壊すと見えてくるものは何なのかということが描かている。
原作においてはそれもまたビジョンとして、全部、ニワトリ卵的な、
あるいは永久の螺旋運動のようなものの中にすべてが巻き込まれていて、
何が現実なのかをまったく訪ね当てることができない状況が描かれている。

映画では前半は原作とまったく違っていて、監督オリジナルのストーリーで、
先ほどのロビン・ダイトがスキャンをしてITの世界、ビジョンの世界に入っている。
後半はある程度、原作に忠実で、アニメパートになる。

それでもやはり単なるビジョンではない、現実というのがあるはずだと、
そうしたものを訪ね当てようという意欲をなくせば我々は倫理を失う、と。
自分勝手な夢を見ていたら、誰かを助けるというのはできない。
誰かを本当に助けようと思ったら、たった一人で夢の外に出て
システムの本当の働きを見極めて、場合によってはシステムを壊したりしないといけない
という話。

アリ・フォルマンは「戦場でワルツを」の映画の流れがある。
倫理にコミットしようとする。
しかし、「コングレス未来学会議」のラストはうまくいかない。
結局、現実で息子に出会って再会して息子を助けるという役割を取り戻して
二人で生きていくという体験もまたビジョンの中で探すしかないとして最終的には終わる。
非常に重たい映画。
2,3ヶ月したらDVDになるので、ぜひ見てもらいたい。
おそらく、日本人の映画監督でこれに匹敵するようなものを作れる人はほとんどいないだろう。
非常に重要な倫理、責任という概念に満ち満ちた作品。

ここに挙げていないが、九月上旬に打ち切られてしまった押井守の
「東京無国籍少女」という作品がある。
これにも重要なモチーフが描かれている。

押井守は「うる星やつら2」「ビューティフルドリーマー」という1984年に撮った作品では
文化祭の前夜の夢が永久に続けばいいなあと描いていた。

「アヴァロン」という実写作品でもクソな社会を生きるよりも
バーチャルに構成されたある種のユートピアに永久に生きる方がいいやという
現実より夢を生きようというモチーフ。

前作の「スカイ・クロラ」では夢は所詮クソで、夢も地獄というビジョンを描き、
今度の「東京無国籍少女」ではその夢を破壊しよう、永久に夢にまどろんでいる奴をつぶそう
という呼びかけに変わっている。
押井守が「スカイ・クロラ」の制作の直前から極真空手を始めていて、
彼が身体性を取り戻したというのが根っこにあると思う。
やはりまどろんでいては誰も助けられないというモチーフが背後にあるだろう。

2012年公開の映画「スキャナー・ダークリー」があり、「暗闇のスキャナー」が原作で映画化したもの。
あまり知られていない作品。
キアヌリーブスが主演だが、奇妙な映像。
フィリップ・K・ディックは重度なコカイン中毒者だった。
それが一つの原因で早く亡くなった。
この作品は晩年の作品で、自分自身のドラッグ体験をベースにして書かれているとカミングアウトしている。
自分と同じようにドラッグにハマって、自分はたまたま助かったが、
たくさんの仲間たちが狂ったり死んだりした。
その仲間たちに捧げると映画にも出てくる。

実写のフィルムをベースにして、アニメ的に上書きをしている。
それは映画を見ればわかると思うが、ドラッグ体験を映像化するというのはなかなか難しい。
一回、アニメ的なオーバーレイをかぶせることによって、体中から虫が湧いてきているという
様々なビジョンを加工しやすくすることができる。
非常にハイパーなリアリスティックな、ハイパーリアル感がある作品。

今は禁止薬物に指定されているリタリンというのがある。
昔は禁止ではなく、見沢知廉はリタリンが原因の妄想で転落死し、
今では国際ジャーナリストの人がリタリンで精神病院に結構長く入院していたり、
リタリンでもあまり良くない運命を辿ることになっている。

キアヌリーブス演じる麻薬捜査官が自分自身が麻薬にハマっていく、
どうしてハマっていくのかというストーリー的な説明で明かすことはないが、
気分としてわかるようになっている。
なんとなく、すべてにクソ感がある。

これはある種のそういう体験がある人にはわかりやすいことだが、
精神に高揚感をもたらすクスリをやり始めたころは、普段はこういう感じだとして
クスリを飲んだときに高揚する。
素晴らしい輝き、躍動感に満ちた、クリアカットでダイナミックな世界を生きられる。

クスリを接種するうちにそれが続かなくなる。
どっちがノーマルで、どっちがスペシャルなのかが逆転して
クスリが入っている状態がノーマルになり、クスリが切れた状態があまりにもクソなので耐えられない。

つまり、クスリが与えてくれる体験が素晴らしいからクスリを接種するというのではなく、
クスリの切れたときの世界があまりにもクソなので耐えられないというように
体験の構造が変わっていく。

「スキャナー・ダークリー」はそのビジョンが描かれている。
同時に我々に訴えている。

現実がこのようなものだと思っているとすると、
クスリをやるようになって、反復的にある程度服用した段階で、
この現実を見ると、今よりはるかにクソな現実として体験する。

その意味で現実とは何なのか。
現実をどのように体験できるのか、
という問いは、ある意味どうとでもあり得る主観的なものと言えるし、
例えば、クスリとかあるいは脳内環境を変えるとかによって現実感覚を
如何様にも変わると言うこともできる。

何をするとどういう風に現実感覚が変わるのかというと、
あらかじめ決まっている、非常にチャチなものだとも言える。

「スキャナー・ダークリー」自体の映画な構造は押井守の「スカイ・クロラ」と非常に似ている。
出口だと思ったことが出口ではなくて、すべて内側だった、と。
麻薬を取り締まる役所があって取り締まられた人間が厚生施設に入れられるが、
懲役労働すると、その懲役労働の中身がもっと蝕んでいるというクスリの基になる花を栽培する
という形で終わる。
見て憂鬱になること間違いない作品。

衝撃受けるのはフィリップ・K・ディックはこんな暗い世界を生きながら、
数々の驚くべき作品、例えばブレードランナーの原作などを生み出している。
よくここまで精神活動をできると驚かされる。



この世界というのはクソ。
何かとペニスや何人斬りにこだわったりとか、そういうことに象徴されるような
何それがお前のやりたいことなのみたいな、お前の人生ってそれで完成するのみたいな、
そんなショボいことなのみたいな。
そういうショボい僕たちの意識世界が社会を作り出している概念言語で編まれている。

ここに描かれているすべての作品に共通するのが、この社会にはユートピアはないし、
どこまで行っても概念言語によって編成された社会に閉じ込められた僕たちの意識は
クソのクソ壺が外に出ることはないということ。

今世紀に入って、それが映画表現の基本になった。
映画の世界は小説の世界よりも時代の空気に敏感に反応するところがある。
その意味では外側だと思えたものが全部内側だし、それが全部意識だし、
意識は僕たちの努力によってどうにもならない、社会的、概念言語的に編まれたものに過ぎず
どうしようもないというビジョンが繰り返し繰り返しいろいろな映画で描かれている。

日本は相変わらず恋愛的経験値の低い人たち撮った、
映画学校的恋愛映画とかがあったりして、大体漫画原作が特徴。
お前、目が付いているのかという作品ばかり。

目をつぶって撮っているから、ある種、良い映画だったねぇとデートのネタになる
ような映画が作れるとも言える。
真面目に映画を撮っている人間たちが作り出しているビジョンはますます暗いものになっている。
そのような映画をわざわざ見てください、「スキャナー・ダークリー」を見てください、
「コングレス未来学会議」を見てください、と。

決してデートのネタにしないでほしくて、何の会話をしていいかわからなくなるはず。

映画というのは元々、そういうものだった。
もっとプライベートで、もっと特別で、アートに近いものだった。

リクリエイション、まさに元に戻るという意味だが、
アートはそうではなくて、今まで生きたように生きられなくなるというニュアンスを元々持っている。
映画は今まで生きてきた生き方、感じ方を変えずには前に進めないという状況に追い込む、
元々そういうものだった。

テレビは日常を変えたくない人、リクリエイションしたい人が見ればいい。
映画館というのはそれと違う特別な体験を与える場所ではないのか。
あえて、このような映画を見て、思いっきりドツボに落っこちてもらいたい。



今、地球物理学や宇宙物理学ではパンスペルミアが実は主流化している。
1994年と2012年に、最初はインドに赤い雨が降って、次にスリランカで赤い雨が降った。
赤い雨の正体は35億年前の原核細胞生物。
遺伝子が丸々生き残っている。
一旦、35億年前に宇宙に出た原核細胞生物が地球に戻ってきた。
あるいは原核細胞生物はあまりにも原始的なので、別の惑星系から飛来した可能性もある。

いずれにしても宇宙空間に細胞が生きることができる、
生命圏の外側で生きることができると証明された。
誰も想像していなかったこと。
生命保持、スペルミアという光の圧力、光に準じた速度で飛ぶのでどこまでも行ける。
従来、宇宙にいると考えられていた生命、あるいは生命の存在する惑星は今までの想定より
桁違いに数が多い。何桁も数が多いくらい。
当然、知的生命体の存在も奇跡と考えられていたが、知的生命体もおそらく溢れるくらいいるだろうと
一挙にこの数年で考え方が変わった。

理科で習ったオパーリンの生命スープ説、
コロイド状の海にメタンガスが満ちていて雷鳴がとどろき、光のエネルギーでタンパク質が合成される。
これはあり得ない。
それが起こらないとは言えないが、起こる確率は確率論的に物凄く低い。
それだったら、生命胞子説の方が正しいということで、
オパーリンの生命スープ説はほぼ完全に否定されている状態。

この話は誰も知らない。
僕たちの世界観にあまりにも抵触してしまうので、新聞や雑誌もなかなか書けない。
非常に重要な問題である。
日本の松井孝典さんという地球物理学者がいて、パンスペルミア研究の第一人者。
最もらしい宇宙の創造に関する議論というのはスーパーストリングセオリーという超弦理論で、
十の弦のうちのたまたま四つがこの宇宙でたまたま支配的になったというもの。
たまたま支配的になったのはアインシュタインの言葉で言えば
宇宙定数の値がたまたまある値に定まったからということ。
宇宙定数の値が例えば何千、何万桁、小数以下の何万桁の値が1個変わるだけで
この宇宙はできなかったということも計算上証明されている。

しかし、人間原理というのを聞いたことがあると思うが、
この宇宙は人間のような知的生命体を誕生させるために作られたという議論が今、実は主流になっている。
目的論というのは昔、あり得ないと言われていた。
もし、物事がすべてランダムに決まるとすれば、宇宙定数の組み合わせから
この宇宙ができる可能性は何兆分の一である。
何兆分の一のものが存在すると考えるとすると、例えば壁に突進して壁を抜ける可能性も何兆分の一ある。
そういうものは偶然できたと考えるのはバカバカしい。
目的があってできているだろう。
最先端の物理学者の松井さんもそういう議論を支持している。
松井さんは全然、明るい。
それだけたくさんの知的生命体が地球にいるのに、どうして出会えないなのか。
距離が遠いからか。いや違うと答える。
知的文明がすぐ滅びるからだ、と。
結局、パンスペルミアを観測し、分析することができるぐらい科学技術を発達させた文明は数百年で滅びる。

資本主義がなければ科学は発達しない。
資本主義というのは競争的で、全体性よりも部分を簡単に言えば尊重し、
場合によっては2045年問題に象徴されるように
例えば人間よりも人間的なコンピューターを作ってしまったりして、
そのコンピューターが自分たちよりも人間性において劣る存在を抹消しようと
考えたりする可能性がある。

松井さん曰く、人類は数百年どころか百年も持たないだろう、と。
彼のいろいろな分析からそうなのだが、彼は明るい。

泡だ、と。
知的生命体が泡のように生まれて、泡のように消えていく。
人類もまもなく消えていくだろうが、その代わり、生まれてくる知的文明も山のようにある。
泡のように生まれて、泡のように消えていく。
その流れが定常、コンスタントに存在するというのが人間原理でこの宇宙の作られた目的。
もし万が一くらい知的文明が滅びずに生き残るとすれば、
それをスクリーニングして選び出すのが宇宙の原理の目的なのではということも仰っている。

これはなぜ明るくなれるのかというと、
クソぶりは人類だけなく、知的文明すべてが同じようなクソに直面してダメになっていくから。
よく言う、ウチらだけじゃないよ、貧乏の家はみたいな。
みんな貧乏だ、と同じで救われる感じで、
知的文明はみんなクソで滅びていくんだ、ウチらだけじゃない、と。
ウチらは孤独じゃない。
火星も滅びたと言われている。



■質問1
日本映画について質問したい。
ここに挙げられた映画が日本で生まれてこないというのが気になる。
昔ならば結構あったと思う。
映画を観る前と観た後で価値観が変わるような映画は昔は結構あったが、
2000年後半くらいからそういう映画はなかなか出てこなくなったのではと思う。
その原因として、海外の監督と日本の監督の決定的な違いは何なのか。

■回答
今、唯一残っている映画批評雑誌で「映画芸術」がある。
一回つぶれたが、寺脇研さんのお金で脚本家で有名な荒井晴彦さんが編集長になって復活した。
そこで同じ質問の討議が為された。
僕の答えは「低学歴したから」で、物凄く反発を買った。

昔の日本の映画の監督は東大、京大、早稲田、慶応など学歴と言えば物凄く高かった。
こういった人たちは元々、映画監督になるつもりはなかった。
周りにキャリア官僚がいれば、政治活動家もいれば、政治家もいれば、科学者もいれば、
いろいろな人間たちが自分のネットワークにいるような
そういう人間たちが映画を作って、脚本も書いていた。

今、日本の映画を撮っている人間たちの多くは映像の映画専門学校の出身で、
残念ながら彼らの持っているネットワークは非常に小さい。
人一人が社会全体を観察するのはできなくても、
ネットワークで社会全体を観察することができればよいのだが、
それさえもできない状況にある。

そこには制作システムの問題があって、日本の場合はテレビドラマと同じやり方。
つまり、日本だけ制作委員会方式。
リスクをヘッジするために、五社、十社と資本を出し合って
シナリオもない状態でキャストを押さえる。
AKBの誰と誰と、あるいはジャニーズ系の誰と誰を押さえて、
誰を押さえられたかが決まると、これで話を作ろうと企画会議を行う。
学校を舞台にした恋愛ものにしようとかで脚本家に投げて作らせる。
テレビと同じ作り方で、日本以外でそういう作り方しているところはない。

アメリカでも韓国でも、基本シナリオが作られると
プロデューサーを呼んでGOサインを出したりしない。
自分のところで持っておいて、別の脚本家に渡す。
面白いアイデアで、全然これではダメだから書き換えてくれないかと言って、
書き換えてもらって書き換えてもらって書き換えてもらって
何回か書き換えた状態で行けるとなればGOとなる。
そのとき、クレジットされるのは最後のリライトした人だけという場合もある。
その場合は金で解決。
そうでない場合は共同脚本として名前が数人クレジットされる形になる場合もある。

何人もの知恵がそこに入ることによって、
知識社会化された状態で映画制作が為される。
人間的なネットワークも知識社会化されている。
日本もかつてはされていた。

シナリオについても日本の場合は知識社会化されていない。
かつてはされていたか。されていた。
かつてのシナリオライターは非常に高学歴。
高学歴の意味は今とは違う。
政治運動の経験がある、いろんな経験がある、いろいろなネットワークがある、
そんな人間たち。

僕も学歴が高いかもしれないが、フィールドワーカーとして頑張ろうと思って、
ヤクザにケツ持ちしてもらいながら風俗産業とか見るわけだが、
そういうのは上の世代を参考にしてやった。
上の世代がやっていたのだからオレにできないはずがない、と。

社会学、ルポルタージュの世界でも、僕らのやっていたようなことを継ぐ人が出てくるかというと
映画の世界と同じで出てこなかった。

安全圏でポジショントークするのと同じで、
安全圏でポジションワークするような人たちが大勢いる。
これが原因。



■質問2
クソ社会と仰っていたが、
宮台真司氏を知ったのは二十年前でそのときはこの社会はウソ社会だとそういう言説をしていた。
とても新鮮な新しい人が出てきたと思って聞いていた。
今もそういう点はどう思っているのか。

■回答
ウソ社会からクソ社会へというのは僕のスローガン。
結局、ウソ社会に留まっていなかった、と。
ウソだろうが真実だろうが何でもいいが、クソみたいな感じ。
そのことに関してWebサイトにいくつか載せている。

メルツバーグというノイズミュージックプロジェクトとコラボレーションCDを出す。
そこになぜ日本だけでなくこの社会全体がどんどんクソになるしかないのか、
人々の感情はどんどん劣化するしかないのか、その必然性を書いている。
その世の中で生きる方法は世の中全体を変えようとしても流れとして難しい。
それは相手がシステムだから。

そこで進化論の最近の学説などに目を向けて、
日本全体、人類全体をどうしようという考えを一回置いて、
自分の周りにいる自分の大切な人間たちを生き残らせるためにはどうすればよいだろう。
自分にとって大切な人間たちに幸せになってもらうにはどうしたらいいだろう。
というようにマクロなデザインを放棄して、ミクロなデザインにまず集中するのが重要だと思う。
ソーシャルデザインが社会を設計するという観点からも。

もちろんマクロでも設計できるが、設計通りにマクロはもう動かない。
グローバル化が進んでいるから。
ミクロ構想、風の谷のナウシカ方式をやるしかない。

ウソ社会と言うときにはまだマクロ構想に実りがあり得て、
社会全体をなんとか良い方向に向かわせることができるのではと思ったときの言葉。
クソ社会は何をやってもマクロではダメ。
先進国全体、日本全体で言えば、まったく良くなる気配がない。
むしろ逆で悪くなるだろう。
それはほぼ確実だとして、それでも前に進むことができるための力を
どこからどう獲得すればいいのかという、そういう問題設定自体がクソ社会を生んでいる。



■質問3
クソ社会なのに宮台真司氏は子供を産んで育てているが、
クソ社会だったら子供がかわいそうではないのか。
どうして、そのような実践しようとしたのか。

■回答
自分の周りにいる大事な人間を不幸に陥れさせない、そして幸せにする。
それに向けて、エネルギーの大半を集中する。
そういう決意をしているからだと思う。
マクロではないミクロな努力であればいくらでも実りがあるだろうと思う。



辛酸さんの漫画、フィールドワークは映画「最後の1本」的な方向性。
クソというのはいろいろな見方があって、クソの一つの表れに滑稽がある。
あるいはトラッシュ系という言い方もある。
面白おかしいゴミ。面白おかしいゴミ拾いをする。

世の中、とんでもない現象がいっぱい溢れている。
怒りを持って接してもいいが、怒っているだけでは疲れる。
お笑い、つまり映画「最後の1本」的なものだとして、
ウヨブタを見るとか、安倍晋三的なものを見るとすると、
所詮人間はこんなものかもしれないとちょっと許せる気持ちにもなる。
逆に僕たちはつぶれずに先に進める。
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