映画「香川1区」舞台挨拶

2022年02月05日(土) KBCシネマ(福岡県福岡市)
映画「香川1区」舞台挨拶
出演: 大島新 ドキュメンタリー監督

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■舞台挨拶
 2時間36分という長い映画になったが、最初に編集したときは4時間11分あった。そういう映画もなくはない。ただ、観る人の間口を狭めてしまうということで、なんとか2時間くらいにしたいと思って内容をギュッと凝縮したが、そこまで短くすることができず、2時間半を越える映画となった。どうしてそうなったのかは香川1区の選挙戦はこれでもかというくらい毎日毎日いろいろなことが起こったためで、まさにドキュメンタリー的な展開があったため。

 選挙というものは人間を追い詰めて、人間を剥き出しにする。そういう様をまざまざと目の当たりにした。前作「なぜ君は総理大臣になれないのか」の主人公であった小川淳也さんとは18年間の付き合いになる。小川さん派この選挙にかける思いがすごく強くて、その後に立憲民主党の代表選でも出たが、そのためにはどうしても小選挙区では勝ちたいという想いがあって、日本維新の会から候補者が出たときは取り乱してしまった。田崎史郎さんとのバトルがあったが、感情的になった小川さんの姿は初めて見た。選挙はこれだけ人を追い詰めるということをまざまざと見た。

 平井卓也さんとは夏に初めてお会いして東京の議員会館でインタビューさせてもらった。大人の余裕の政治家で、映画のことも褒めてくれた。タイトルもキャッチーでいいじゃないかとも言ってくれた。それがわずか二ヶ月経つと「PR映画だ。許せん。」ということになった。選挙の情勢が厳しくなって、最初は平井さんもデジタル庁など自分の功績のことを話していたが、段々、立憲共産党でいいのかと相手の候補を批判するネガティブキャンペーンという形になって、映画も批判の対象になっていった。それに伴って、私たちも当事者のようになっていって、批判の対象になったり、追っ払われたり、撮影していた女性のプロデューサーが脅されたり、いろいろなことが起きた。

 前作「なぜ君は総理大臣になれないのか」は小川淳也さんの人物ドキュメンタリーとして作ったが、本作は続編と言いながらも「香川1区」という敢えて無機質なタイトルを付けた。選挙を広い視点で見つめたいという思いと自民党の強さ、小川さんが戦っている相手の強さを知りたいという思いがあって、こういう映画のタイトルにした。

 今回、自民党の平井さん、その支持者の声も聞こうと思って取材をした。自民党の強さでいうと、なるほどと思うこともあれば、そういうカラクリはあまり知りたくなかったなということもあった。期日前投票を会社に言われて行い、それを自分の名前でサインするみたいなことをしていた。高松では噂としてあったが本当に起こっていて、映画を公開してからもツイッターなどで香川県民の方々から昔はあれをやらされていたという声が届いたりした。書いている人も決して悪気はない。小川さんのところに草の根的に集まって祈るような気持ちで投じた一票も、会社に言われて投票した一票も数として同じ一票。本当に民主主義とは何なのだろうと強く思った瞬間でもおった。香川1区の場合はたまたま候補者がキャラクターに特徴があって目立つが、日本中の選挙区でもしかしたら似たような構図、同じ構図があって勝敗が決まるのではという思いもあって、これでいいのだろうかと感じつつの取材だった。

 撮影、編集含めて制作の過程でメインの被写体に小川さんがいるが、実際問題としてこの映画の主役は有権者なのではないのかと思うようになった。小川さんを勝たせたことも集まってきた支持者、ボランティアの熱が本当にすごかったためで、それで勝てたと思う。一方、自民党の平井さんに投票する方にもいろいろな理由があり、それぞれなりの合理性がある。それが日本の縮図みたいな思いがした。

 映画のポスターのデザインは目が回りそうだとよく言われるが、この模様はモザイク状の人間を表していて、青が小川淳也さんの色、赤が平井卓也さんの色、緑が町川順子さんの色で、それぞれの得票率に合わせた面積になっている。有権者がモザイク状になっているという意図を込めたデザイン。普通は候補者の顔を三人並べるが、敢えてそういうデザインにした。

 前作の「なぜ君は総理大臣になれないのか」も多くの方の口コミで育ててもらった。今回の映画も気に入ってSNSで広げていただけたらうれしく思う。



■質問
 本作がエンターテインメントに仕上がったのは撮影するときに確信を持って撮影したからなのか。それとも、結果として思った以上にエンターテインメントとして仕上がったのか。

■回答
 テーマ、社会的な意義などはすごい大事なことだが、それ以前に映画作品として、エンターテインメントとして面白いものを作りたいと常々思っている。その努力はしている。ただ、ドキュメンタリーなので、私の思いや力量だけでできるかというとそれはできない。確信を持って撮影できることはなかなかないが、基本的に選挙というものはドラマがある。今回、映画がある程度うまくいくのじゃないかと思ったのは、最初に平井さんがインタビューを受けてくれるということをOKしくれたときで、前作と違う厚みが出ると思った。その後の展開はまったく予想をしていなかった。期待を良い意味で裏切ってくれた。毎日毎日、面白いことが起きるとは思っていなかった。途中から特に平井さんからPR映画だと言われ始めてから、この方々は頼んでもいないのになんて映画を盛り上げてくれるのだろうかという感じになっていった。小川さんの陣営もご家族含めて、特に二人の娘さんに関してはなかなかあんなお嬢さんはいないと思う。元々エンターテインメントにしたいという意思があったが、予想を遥かに上回る状況が生まれた。



■質問
 何か映画に出せなかったまずいシーンはあったか。

■回答
 これはまずいと思って切ったところはまったくない。逆にそういうところはなるべく出そうとしていた。実際、最初の編集で4時間にもなったので落としたところはシーン自体を落としたものもあれば、入っているシーンを短くしたものもある。いくつか印象的なもので言うと、夏に中村喜四郎さんという大物代議士が小川さんの応援に来た。このシーンは断腸の思いでまるまる落とした。取材嫌いで知られる中村喜四郎さんなので貴重なものだったが、全体の構成の中で入りづらかった。立憲民主党の枝野幸男、岡田克也の応援演説も撮ってはいるが、お決まりの選挙でよくある絵なので外した。辻本清美が来たシーンもすごく良かったが外した。平井さんにも麻生太郎、甘利明が応援演説に来たが、そのシーンも落とした。選挙戦の後半に小川さんの事務所でライターさんと小泉今日子さんが行っていたインスタライブも撮っていたがカットした。小泉今日子さんが映ってはいけないという理由ではない。選挙戦の緊迫した渦中で、岸田総理の応援演説に行って受付で追っ払われた日に小川事務所に行ったら小泉さんたちがインスタライブを行っていた。さっきまで殺伐とした空気の中で今度は真逆のシーンだったので、映画をどう見ていいのかわからなくなるので、そこもカットした。



■質問
 小川事務所で若い世代が「楽しい」と言っていたが、どう感じたか。

■回答
 小川さん陣営では18年前からずっと支援している方もいて、そのような方は大体70代になっている。若いと言っても40歳前後くらいだが、今回の選挙からその世代が入ってすごく力になった昔から応援しているボランティアともいい関係で、すごく補い合っていた。「楽しい」という言葉によって、今まで選挙に関心がなかった人たちが入りやすくなるということも現実にはあると思う。そういう言葉を使えば入ってきやすいものだと私は感じていて、これも一つの新しい選挙の新しいやり方だと思った。



■質問
 日々、目の前に生活でいっぱいいっぱいで将来のことを考える余裕がない人も多い。このドキュメンタリー映画を通じて、選挙に興味が持てるということは素晴らしいことだと思う。

■回答
 選挙には行ってもしょうがないと思うのも当然だろうなと思う。ただ、投票率の問題はどういうことを引き起こすかというと一つの例が以下。政権交代が起きた民主党が勝ったときは70%近かったが、安倍政権になってから投票率は50数%が続いており国政選挙は自民党が勝っている。投票率とは別に絶対得票率という数字があって、自民党に全有権者の中で自民党に入れた人の割合は25%くらい。つまり、国民の1/4の信任であれだけ最強政権と言われた政権が続いていた。そこで反対があっても押し切って通した法案もある。例えば2015年の安保法制など一つの象徴的な法案のだが、国会を二分するような議論があった。当時の自公政権が選挙でずっと勝っていて、議席を獲得していたから成立させられた法案だった。それも絶対得票率25%の人の信任で決まっているという現状があるので、そこをどう思うかということだと思う。急に選挙に行けと言われても困るというのが現状だと思うので、このドキュメンタリー映画を通して友達とときどき話す機会があればと思っている。



■質問
 今回の選挙戦で、小川さんに対する周りの雰囲気が変わったと思う。人の心が変わったきっかけはどこか。

■回答
 映画が一つのきっかけになったところもあると思う。だから、平井さんが怒るのも無理はないが、PR映画のつもりで作ったわけではない。結果として小川さんの知名度が上がり、全国的な期待値が上がったことはあった。きっかけの一つになったと思うが実際に生の小川さんと触れてがっかりしたら帰っていたはず。小川さんには間違いなく魅力はある。では、その魅力は何なのか。対話力、ちゃんと話す力があると思う。香川県でも青空集会という対話集会を行って、いろいろな方の意見を聞いてそれに対してちゃんと答えていくことを行っていた。立憲民主党の代表選のときも有楽町のところで聴衆の前で質疑応答をやるわけだが、一旦時間が終わって、その後、並んで話を聞きたいという人にも寒空で一時間でも一人ずつ聞いて答えていた。他の立憲民主党の代議士もその姿を見て度肝を抜いていた。有権者とどこまで本気に向き合えるのかということが大きい。正直、選挙というのは私から見てもいろいろな人が来る。中には政治好きで変なことを言ってくる人もいて想像つくと思う。全員等しく時間を取るというのは難しい。それでも小川さんはちゃんと向き合うということをやっている方。それがボランティアの方も含めて支持者の熱につながったと感じている。



■質問
 ドキュメンタリー映画を撮るという行為の中で「自分」が入っていくるのか。また、影響を受けた作品を教えてほしい。

■回答
 ドキュメンタリー映画は監督の作風がすごく影響する。まったく取材者、監督がまるでいないかのように作られたドキュメンタリーもある。例えば、フレデリック・ワイズマン監督、日本で言えば想田和弘監督。監督がいないかのような存在感を消して、撮っているドキュメンタリー映画もある。それも一つの手法。逆だと、マイケル・ムーアで介入していく、どんどん入っていく。これは芸風で好み。ただ、前者の場合にそれがありのままの事実をとらえているというように見えるとしたら、それはそれでおかしいというのが自分の考え。何故かと言うと、カメラがある時点ですでに異常な状態でありのままの日常はないと思っている。自分は見て切り取った事実であるということを示したいタイプで、割りと「自分」が入っている。どんなに気配を消しても、絶対、作り手の意図というものがある。その意味で言うと「自分が介入して見ている現実を伝えている」ということを伝えるのがフェアだと思っている。映画「香川1区」の場合は自分が出るということをさらに越えてしまったのは狙っていたわけではなく、平井さんの陣営からいろいろあったのでよりそうなってしまった。

 私が影響を受けた作品は、生き方に影響したということで言えば森達也監督の映画「A」。これはオウム真理教の当時広報副部長だった荒木さんを中心に撮られたドキュメンタリー映画で、影響を受けたのは出来不出来よりも姿勢、スタンス。90年代にフジテレビにいて、入ったばかりにオウムの事件が起きて、テレビ局中が大騒ぎになっていた。そのときに森さんの映画「A」が1998年に公開された。作品としてどうこうよりも、これはテレビ局にいたら絶対に作れないという思いがすごくあった。要は普通のテレビマンたちが撮っている逆側にカメラがいて、オウムの中から撮っていた。それに対して批判もすごくあったし、今、観てみると違うやり方があったのかなと思うが、あの時期に映画「A」を観たときにこれは逆立ちをしてもできない、組織の大手メディアにいる人間では絶対に撮れないと感じた。それだけが理由ではないが会社を辞めて自由の立場でモノを作ろうと思わせてくれたきっかけという意味で森達也さんの映画「A」は外せない。

映画「無頼」舞台挨拶

2020年12月26日(土) KBCシネマ(福岡県福岡市)
映画「無頼」舞台挨拶
出演:井筒和幸 映画監督

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■映画制作のきっかけ
世の中にはモノ言いたいけどモノ言えないから、しょうがなく社会の下層の終焉に追いやられて生きている人たちがいっぱいいる。僕はそういう人間をいつも見つめてきた。2LDKに住んでいる上品なお家の話など撮ったことがない。

1973年の仁義なき戦いを観たのが、ちょうど二十歳の正月。正月公開だったが、本当の正月公開ではなく15日の成人式くらいからの公開だった。オレ達は成人式より仁義なき戦いを観に行った。成人式なんか行くもんじゃないと、道頓堀東映へ行った。恐ろしい賑わいで、半数がヤクザ者だった。その中に混じった。弱肉強食の仁義が通らないヤツが有象無象のそういう社会の物語。

インパクトがありすぎて、本当に僕らも普段、夜中に酒を呑んでいると、こんな目的の決まらない生き方は嫌だなぁとつくづく思った。なんとか明日、何かしなきゃなと思うが、そうはさせない時代だった。朝起きると、つい忘れちゃう。また誰か友達と連絡し合って、道頓堀に遊びに行く。本当に無職者で、そういう生きあぐねている若者は当時いっぱいいた。

全然、ヤクザ映画として観ていたわけではない。自分と同じような捉え方で自分の人生そのものと捉えて、いい親分、つまり、いい先輩、いい兄貴分、家族と呼べるような信頼できる先輩、そういう人間にどこかで巡り合って、何か自分なりのことをしていけないかなと思った。冷たい会社でサラリーマンになって生きるのは嫌だな、どうしたものかと考えていたので、余計に映画が響いた。それで、この興奮を作っていく映画を作ろう、この興奮をさせているものをこれから僕も作っていこうと思ったのが映画制作のきっかけ。

僕は映画界で一番長いのじゃないか。高校二年生の終わりから映画監督をしている。映画監督という生意気なことではないが、高校の終わりくらいに映画研究会で文化祭のときに8mmフィルムを使って映画を作った。

今回の映画はスーパー16というフィルムを使った。デジタル上映はしているが、素材が金星の塔みたいなもの(普段、シネコンでかかっている大抵のものは籾の塔みたいなもの)。フィルムはデジカメみたいに撮ってすぐ消去というわけにはいかないので現場の緊張感が凄い。その辺の話はパンフレットにも書かれている。

ただ、そのパンフレットが2200円というのが一番ヤクザ。東京でもその噂が出回っており、ツイッターでも広がっている。2200円というのは日本一だろ、と。

パンフレットには映画の現場で使ったキャスト、スタッフ用のしおりの内容を含んでいる。何千名の名も無き役者たちを全員オーディションして、キャストは四百余名いる。スタッフもいっぱいいる。スーパー16という特殊な機械を二台、三台使って撮っているので、スタッフが大勢になってしまう。簡単には撮れない。映画の現場というのは冒険旅行に出かけるようなもの。お互いわかっておかないと、一人でも「すみません。先生、ここどういう意味ですか。」といちいち聞いていたら、「うるさい」と言うしかない。みんな予習するようにということで、映画のしおりを我が井筒組も作っている。

映画界でも「組」と言う。どの業界も似たようなもので、我が井筒組も現場のしおりを2200円の中に刷り込んでいる。普段では聞けないことを書いている。そういった意味で値打ちがあって面白いと思う。思い出しながら家で見てほしい。


■撮影現場
ダンプで突っ込んでいくシーン、パワーショベルのシーンなど、今どきはコンピュータグラフィックでやってしまうが、実際に行った。田舎町の舞台の政治ゴロ、ガタガタ言って金もらってきている政治ゴロが経営しているインベーダーハウスに嫌がらせと言うか恐喝でパワーショベルで突っ込むシーンがあるのだが、あれは年代もののパワーショベルでなかなかなかった。パワーショベルの運転手さんは素人さんで土建屋さんのおっちゃんだった。パワーショベルを運転できる俳優さんはなかなかいないが、たまに全然特殊持っているよという人もいる。俳優さんは結構流れ者なので、今の軟なその辺のアイドル系の俳優さんとは意味が違う。

夜中に何回も練習し、リハーサルから真剣に行きますからと言っていたら、そう言っているうちに間違えてアクションと言っちゃった。どの辺で止まるかと思ったら、そのまま中にバーンと突っ込んだ。中にいたスタントマンは逃げる用意をしていたが、急に本番が始まったと思って逃げてきた。フィルムが回っておらず、アウトだった。デジタルだったら回しているが、フィルムだから回っていなかった。三週間で建築しなおして、三週間後にもう一回行った。何百万かかかったと思う。あれは岐阜県でやらせてもらった。とても協力していただいた地域だった。

あと、ウンコをぶっかっけるシーンがあるが、あれも大変だった。あれも岐阜県で、理解ある元信用金庫でカウンターもそのままあった。いわゆる、田舎の信用金庫的なところ。スタッフにアホがいて、以下のやりとりがあった。

スタッフ「監督、やっぱり、銀行を脅すシーンは一日掛りになると思いますけど、これどれくらい分量に用意しましょうか。」

井筒監督「そうだなぁ、適当に考えろ。専門家じゃないんだからわからないから、たくさん用意したらいいんじゃない。」

スタッフ「そうですよね。これ、監督。マジでホンモノでやるんですよね。」

スタッフの目が座っていたが、こっちも目が座った。お前はどこまでアホか、と。そんなことしたら、役者さんが乗ってくれるのか。うちの組は大体本気でやるわけで、パッチギのときも本意気でやっているところがあって、その度に救急車が来ていた。京都の街中は大騒ぎになっていた。そんな無茶はしていないが、いろいろ本気でやるんだというのが業界に伝わってしまっているので話が大きくなっていた。お前、ホンモノどうやって集めるのか、と。

実際のあの茶色いモノはカレーで、バキュームカーの横に子供が泳ぐようなビニールの大きなプールを作って、そこで朝からかきまわした。あんなもの見た日は嫌になるが、夕方に終わるとカレーが食べたくなった。実は昼から決めていた。カレーの匂いがプンプンしていた。絵の具を混ぜると、ロケ地が嫌がる。ペンキ、絵の具の類は取りにくい。カレーも残るが片付けやすい。絵の具の方が固まったりする。

最初、なかなか蛇腹のホースの先から出てこなかった。後からドーンと出てきた。撮影班はみんなカッパ着てゴーグルを付けて完全装備だったが、びっちゃびっちゃになった。カメラは大丈夫で、実はレンズの前に大きなカメラ用の扇風機があって回っている。雨の日でもカメラを上向けても撮れるようになっており、水滴を全部はじく。ただ、さすがによく見たら曇っているところもある。あまりにもカレー攻撃がひどいので、入ってきた何粒かあったのだろう。


■映画「無頼」のメッセージ
銀行にウンコをばら撒くシーンの話で、熊本では元銀行員の人が手を挙げた。資本主義の銀行をバカにするなみたいに怒られるのかなと思ったら(こっちはそれを皮肉っている)、34年間銀行に勤めて辞めたけどやりたいことを探していた、と。本当は写真家になりたかった。映画を観たら、自分の欲望が盛り返してきて、自分のやりたいことをやろうと背中を押された、と。えらいことを言われるなあと思った。

そう、映画「無頼」にはもうちょっと欲を出して生きていいんなじゃないのというメッセージがある。

何故、ヤクザになったのかとあまり追及しても、出自がそうさしたり、生まれついての境遇がそうさしたり、みんな好き好んでなるわけではない。いろいろな理由があって不良になる。そこを見つめてきた。今回は根源的な理由は言わなくてもわかるだろうし、在日の話、被差別部落の話を入れるとそっちに話がいくから、それは観ている人が自分の教養の中で感じ取っていただければと思う。

昭和は高度成長でみんな成長したが、その片隅で出自でうまくいかなかった人たち、全国津々浦々にヤクザ者がいっぱいいた。とにかく、社会からこぼれないように、こぼれないようにしながら、頑張って生きていた。選択肢がない人生もある。

それにしても、若い人は昭和を知らないから、ちょうどいいかなと思って本当は作った。昭和のときの欲や夢みたいなものがもう本当にない。元からなく、まさに「失われた世代」。もっと、欲どしい昭和をちょっとでも知ってほしいな、と。

年配の人たちはああいうことがあったよな、組長がこう言っているけどオレはこんな会社に入ってこんなとしてどうこう言っていたなとか、あのとき付き合っていたあの女を思い出したなとか、いろいろなことを思い出して観てもらうのも馬力の一つになるかもしれない。そういう懐かしさも込めて、観てもらうのも面白いなと思う。いろいろな意味で昭和を出したかった。

泉谷さんとは付き合いが長い。あの人は歌詞が良い。「春夏秋冬」は人生そういうもので、僕もそうだった。あのときああいう人間に出会ったな、何故出会えなかったのか、そう思っているうちにあの歌が浮かんだ。


■次回作について
次回作は福岡県の筑豊が舞台で、川筋者の心意気というものをやってやろうと思う。また世間を騒がす不良どもが出てくるような青春グラフィティで、ヤンチャしていた若い子たちの物語。差別もあるところなので、もう一回、日本人とは何ぞやというのを考えてみようかな、と。パッチギみたいな感じで、青春グラフィティで気張ってやってやろうかと思っている。何にしろ、お祭りみたいな映画になると思う。それはそれで期待してほしい。順調に行けば、来年の夏くらいに公開ができる。

問題はコロナ。今年やろうかなと思ったら、コロナだ、ヘチマだと言ってできなかった。怒鳴り合うのが現場で、マスクをつけて仕事はできない。怒鳴り合ってはダメで、現場というのは5密、6密、むちゃくちゃ密な現場で離れて何ができるんだ、と。全然条件がかなわないので、今年残したところがある。こればかりはしょうががないので、何とか用心しながらやる。

映画「無頼」はヤクザ者に是も非もなく撮ったつもり。大阪も封切ったし、東北ももう封切る。正月からは札幌でも封切る。たまには昭和の熱き時代を振り返ってみるのも何かの足しになると思う。

映画「さよならテレビ」舞台挨拶、トークイベント

2020年02月15日(土) KBCシネマ(福岡県福岡市)
映画「さよならテレビ」舞台挨拶、トークイベント
出演:阿武野勝彦プロデューサー、KBC解説委員長 臼井賢一郎

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■臼井
1時間40分の映画版。ドキュメンタリーが77分あった。私はドキュメンタリー版も観ていて、今回、映画版も拝見した。やはり、映画になると独特の編集があり、人物の描写がさらに広がった感じがする。とりわけ3人の出演者に対する思いは強いと思う。今日はお客さんの中にいろいろな立場の方がいるが、私は阿武野さんと同業になる。同業が思うところもあるが、素朴にどう思うか、いろいろ意見を伺っていきたい。

私自身が思ったのは、もちろんこれは東海テレビの作品だが、あたかも自分が作品を作ったというか、鏡というか、もろにブーメランを投げられてるような強い思いにとらわれた。どういうことかと言うと、冒頭のあのタイトルベースでもカメラのレンズがあって、すごい眼差しがあった。そういう思いを持って観たのだが、何と言っても発案した東海テレビ、阿武野さんの考えを伺いたい。


■阿武野
東京、名古屋、大阪などいろいろなところで上映して、会場の後ろで皆さんがどんな風に観るのかな、と。地域差もあるが、名古屋と大阪は終わった後、拍手が起こった。どういう拍手か結よくわからなかったが、結構笑う。ここで笑うんだ、と。大阪と名古屋では結構笑っていたシーンがあった。渡邊君がテレビ大阪に入って、六甲で食レポをやる。あそこのところは結構、大声でみんな笑う。福岡は笑わない。福岡は笑わなかったと、今度は富山に行くので、富山で福岡はわらわなかったという話をするが、やっぱり、県民性だとか、その日の天候だとか、その日の観る人の気持ちだとか、この映画の距離感みたいなもので随分変わるので、福岡を一概にまとめるなということもあるが、同じように大阪もまとめるなということもあるが、地域性は随分あると思う。

東海テレビではこれは12本目のドキュメンタリー映画。前作は「眠る村」という名張毒ぶどう酒事件の第三弾ということで、KBCシネマでは二日間上映された。その前が「人生フルーツ」だった。意外とそこから26万何千人の方が映画館で観ていただいており、まだ北海道では月一回上映を続けていて、いい夫婦の日と言うことで22日は人生フルーツの日をやってみたらと言ってみたら、22日ではないがやってくれた。大体、100席くらいいつも満席になっており、三年続いている。それを作った局がこれなのかと言われるケースが結構ある。

この作品は「ヤクザと憲法」というドキュメンタリーと「ホームレス理事長」というドキュメンタリー映画を2作一緒にコンビを組んできた圡方くんが「ヤクザと憲法」以前に企画を持っていて、「ヤクザと憲法」を先行させた。彼自身のテレビ歴、テレビマン人生の中で今、非常にテレビは危機的状況にあると思っていて、ドラマ系から入って、バラエティをやって報道に来てという中で、テレビはこれから生きていくんだ、テレビはどうあったらいいんだろうという根本的な疑問があって、「テレビの今」という企画書を5、6行だったが持ってきたのが発端。

いつも私どものドキュメンタリーはそうだが、一人のディレクターあるいは記者がドキュメンタリーを長期でこの題材で追ってみたいと言ったら、それを形にしていくという形なのでヤクザの事務所と入るのと同様にテレビ局の中をそのまま映したというのが非常にプリミティブな形。


■臼井
企画のきっかけの話を伺ったが、とりわけ冒頭の部分の圡方さんの話しっぷり、罵倒のされ方とかいろいろあって、さすがに圡方さんの企画意図はどの程度のものだったのかな、と思った。ただまあ、やってみるかぐらいの感じで東海テレビは認めてやったのかと思えたが、そのあたりはもうお前、もうやっているじゃないかというところがスタートなのか。


■阿武野
これは圡方と私と同じ認識と思うのだが、テレビマンはものすごく頭でっかち。理屈で物事を考えるという悪いクセがある。私たちは「手ぶらのドキュメンタリー」という言い方をしていて、手ぶらで現場に行こう、と。あまり先入観を持ったり、勉強したり、こういうロジックで人を説得し、あるいは、こういう台本上の中にシノプシスを書いておくというか、あらかじめそういうことをして現場に行くのをやめよう、と。

そういう意味で「手ぶらのドキュメンタリー」と言っているので、どういう企画意図があってというところを責められても「頭の固いことを言うなよ!撮ってみなきゃ、わかんねえじゃないかよ!」という、そういうコミュニケーションの仕方。それはすごく何かを表現するときに自分の頭を中心に構築するやり方と現場で出会ったものをどういう風に映像化して表現するか違いがあると思う。


■臼井
そう言われると、納得できる部分として、最後のロールスーパーにいみじくも出演の御三方の名前が出る。あの三人は非常にいろいろな立場があって、本当に真剣に物を考えている。作品を観ていると、ますます思いが入って魅力を感じるくらいの方で、あの三人に至るプロセスはどうだったのか。多分、他にいたんじゃないかと思う。


■阿武野
現実に、御嶽山が噴火して息子さんを亡くされたご家族に取材を続けている人間、局の社員ディレクターにも密着していた。それは私がそのディレクターと一緒に仕事するときに、その素材も全部使うよと言って、番組の途中で取材記者がびりびり出てくるという家族の気持ちというドキュメンタリーだったので、素材を使ってしまったということもあるが、段々、取材していくうちに三人に絞られたのであって、最初から台本上この三人に決めた形ではない。報道局長とかいろいろな人間にも取材をかけているが、可もなく不可もないというかつまんない。監督をやった圡方に言わせると、こういう質問にはこうやって答えて、ちょっとはぐらかすというある意味、素の個人が見えてこないというものでしかなかったので、素材としての面白みがないので落ちたということ。


■臼井
特に取材のプロセスの中で印象が残り、みんな印象に残るが、澤村記者はかなり理屈を持っていて、ジャーナリストだと確かに思うし、その辺のプロセス、説得の話を非常に興味深く観たのだが、かなり圡方さんもさすがだなというか仕掛けている。仕掛けて澤村さんに考えさせているなという気がしたが、その辺はどういう狙いか。圡方の心の内はどんなものか。


■阿武野
澤村記者はどこか言うだけ番長的なところがある。頭でっかちなところもあって、行動が伴わないということがあるので、取材を通じてある意味では人間が変わっていくということがあっていいわけで、それを取り組んでいくものをそのまま映像の中で表すという意味では澤村は50過ぎてから記者として剥けていくというものがあっていいんじゃないか、と。

当初、編集段階で澤村記者はもっとピカピカのジャーナリストとして描かれていた。これは誤解を生むよと私は言った。さらに、澤村記者はこの組織の中で浮いてしまって、言ってみると契約を切られるというケースもあるから、彼のできるところとできないところ、論理として持っているものとそれを実現できないものを垣間見せないと作品としてもちょっと映る部分もあるし、表現された組織としてはあんなのウソじゃねぇかという話になるのでそこのところはきちんと描かこうよと言った。


■臼井
彼も取材の中で逆にこれを使ってやるというかこの作品の取材を使ってオレを見せるというかそういう雰囲気もするが、圡方さん、ディレクターも学ぶし、取材された側も学ぶ。なんとも言えないサイクルができていると思う。


■阿武野
どこかで舞台挨拶、講演やるというと澤村さんは意外にいる。講演大好き、シンポジウム大好きで、ある種のオタク性があって、ナベちゃんはナベちゃんのオタク性があるが、澤村には澤村のオタク性があると見る人もいる。もし、ここに澤村がいたら発言し出す。

ドキュメンタリーの作り方はやっぱり自由だよと私たちは言っている。中でもお金を貸すシーンが出たりすると、えー!と思うだろう。ホームレス理事長のときにお金を貸す貸さないというやりとりのシーンがある。圡方ディレクターで、山田理事長と言う人にお金を貸してくれと言ったが、そのシーンそのまま全部ある。15分くらい、貸してくれ、貸さないというやりとりがあり、山田理事長が泣き始めた。

何で貸してあげなかったのかと僕が聞いたら、貸すと物語が変わると彼は言った。ドキュメンタリーは物語を変えてはいけないと当時思っていた。ドキュメンタリーはそういうものであるべきだ、と。観察して、状況を変えないものだと彼の頭の中にあったので、カメラが入った時点で変わるんだよと言った。貸してもいいけど、あたかも貸さなかったごとくに描くのはダメだよ、お金で牛耳られていると向こうが思っていたら、貸したシーン以降に態度が変わる、目つきが変わる、いろいろなことがあるので、貸したというシーンがあれば、その後の関係性が変わろうが、何しようが、ドキュメンタリーとしては許容範囲だと言った。今回はそれをこんな風にして貸した。いくら貸したか、返ってきたかは言わないことにする。


■臼井
非常に興味深いシーンで、そのシーンについてはまた後から質問があると思う。アナウンサーの福島さんは非常に生真面目、大真面目な方。彼のベースはセシウムの件がああったと見るべきか。


■阿武野
実は福島さんがセシウムさん事件のときにあんなに傷付いていた。それをずっと6年も7年も抱え続けていたということを私も知らなかったし、取材スタッフも知らなかった。おそらく社員は誰も知らなかった。それくらい福島が負った傷が大きいよということを初めてあそこでこの映画の中で描いた。そうすると年に一回やっている放送倫理を考える全社集会は一体何だと社員は思ってくれたりしないか。本気でこれを礎にして、何かをしていくという「何か」ということを考えてくれるのではないか、と。だから、福島の心の中の根っこが描かれたことで、よく「福島さんはどういう風にこの映画を受け止めているのか。」という質問があるが、福島本人は悪い印象を持っていない。

タイムキーパーの女性がちょっと厳しめなことを言う。最後はちょっとどこかの呑み屋に行くと、笑顔で受け取るじゃないか。あれなんかは厳しすぎると思うかもしれないが、人の受け取り方はいろいろで、モニターをしたとき放送が終わったあとにみんなで呑もうかと行ったときに福島とタイムキーパーの二人がいた。須田ちゃんと言うが、そのときに「須田ちゃんが僕のことをああいう風に思っていてくれたんだ、うれしい」と彼は言った。

その前に、このドキュメンタリーは会社の中で批判された。東海テレビのイメージを棄損したと、役員を始め、本当に私が「さよなら東海テレビ」なりそうな感じだった。そのときに須田ちゃんがかわいそうだ、と言われた。あんなシーンを使われて、切り取って、悪いところばかり盛り込んで、東海テレビのイメージを棄損した、と。「中に描かれた人間の中で傷付いている人間がたくさんいるんだよ!須田ちゃんなんかひどいじゃないか!」と、須田ちゃんに成り代わって私を批判する。そして、私が「須田ちゃんがそう言っていたのか?」と聞くと、「えっ」と言う。「言ってたの?須田が?」「いや、聞いていない。」「聞いていないのにひどいじゃないか。オレを批判するのに須田を使って。須田はそんなことを言っていない。須田は私はもっとひどいことを言っている」と言った。

という話をして、タイムキーパーはドキュメンタリーのスタッフ。二人優秀なタイムキーパーがいて交代交代にドキュメンタリーを担当する。第一稿というのは編集を始めて一番最初にできるもので、55分番組だったら2時間くらいに縮めたもの。第一稿ができて、一旦モニターするときに担当のタイムキーパーを呼ぶ。見てもらう。いろいろなことを言う。「この主人公のおじさんが気持ち悪い」とかいろいろ言う。それが段々、二稿、三稿、四稿となると、全部見ながら彼女たちがどういう風に見てくれているのかというのをすごく大事にしている。ドキュメンタリーを作る上で欠かせない存在で、その意味ではすごくメディアリテラシーというか、リテラシーが高い、読み解く力がすごく高い。そういう人たちが絡んでいて番組が成り立っている。

光市母子殺害事件のときに、みんな本村さんに成り代わって起こったというのがあった。私たち、そのときに被告弁護団側に入って取材をして、「鬼畜弁護士を取材して番組にする、お前らが鬼畜だ」と言われてひどい目にあった。これは社長に言われた。お前は鬼畜だ、と。それが、何とか賞を取ったら、オレがやらせたと急に言い出した。人の目に成り代わって人を批判してはいけない。自分が批判するならいい。オレが許さないというだったらまともに向き合う。


■臼井
よくわかる。私はドキュメンタリーをやるが、最初の編集マンあるいは仕上がりを見た最初の音声の人がどう言うか。面白いと思うか、思わないか、最初の視聴者という感じでもあるし、当然プロだというところもあってありがたいなと思う。須田さんというのはあえて狙っていたのか。福島さんを描くに当たっては彼女の3シーンは欠かせないなと思った。最初こそ厳しい言い方をしたが、最後、やめることが決まった福島さんには何とも言えない暖かい表情を送っている。須田さんはそういう欠かせない人なので、狙ったのか。


■阿武野
狙ってはいない。

私たちのドキュメンタリーはとにかく無駄打ちをする。1年7ヶ月、他の仕事はあまりしなくていい、と。会社の中でずっと回していた。報道局にいる人はほとんどアップで何カットもいろんなシーンがある。

女子社員の中で、タイムキーパーの中でもう一人、河合舞ちゃんがいる。もう一人は須田ちゃん。須田ちゃんがああいう風に感じで嫌な感じで映っているのは阿武野さんが河合舞ちゃんと親しいからだ、と女子社員が言っていた。それはすごかった。我々がいつもいろいろなところで組織だとか、人とか、家庭だとかの中で取材させてもらうが、その取材先でどんなハレーションが起こっているかというのをやっぱり体験してみたことだった。それをハレーションが起こり続けている組織の中でずっと仕事をしなければならないということを初めて抱えたが、実はそれはずっと外でやり続けていたのが我々だという。そこが得るものだったと今、思っている。


■臼井
まったく同感。冒頭に感想を言ったが、カメラを向けるということはこういうことだったのか、と。それなりに取材者として相手を最大限尊重しさらに自分自身をさらけ出して切り結んだという思いはそれなりに持っていたつもりだが、そんな認識が甘かった。内側を撮ることは知恵を付けられた感じがする。


■阿武野
圡方はニュースデスクに戻ったが、ときどき逃げたいという顔をする。やっぱり依然としてハレーションは収まらない。傷付いた。ニュースデスクたちは相当、傷付いた。傷つけたということをずっとこちらが抱えないといけない。しかし、時間が解決することと仕事の中でどういう風に再構築していくかということが起こりはじめている。

「撮るな!」と言ったのは編集長だが、彼がドキュメンタリーのプロデューサーとしてつい最近一本やらなければならなかったが、やっぱりびびっている。取材先に行けない。行けない自分を抱えないといけない。ナレーションを誰にするか、そういうものでも違う世界の違う見方をしなければならなくて、報道局にありながら、ニュースとドキュメンタリー両輪と言いながら、意外と方程式が違う。なかなか交われない。ドキュメンタリー一本やると、出来が悪いとめちゃくちゃ言われる。ニュースだとアッと終わる。ちょっと10日くらいすれば、どんなチョンボしてもまあまあ忘れたなあと思うが、ドキュメンタリーは忘れてくれない。忘れてもらえないものを作るということに意味があるという思っていてほしいとあるので、私のところはニュースをやっている記者たちがこういうのがやりたいと手を挙げたら、すぐにできるシステム。年間4、5本に手を挙げてくれれば、熱意さえあれば、じゃあやって、と。

それを繰り返していくしかない。組織はそう簡単に変われない。10年以内に東海テレビはすげえぞと言われる組織になっていないと、おそらく潰れている。映画監督の崔洋一さんと会ったとき、東海テレビはグラナダテレビになれるん、一緒にやろうよと言われたことがあった。一緒にやりたくなかったので黙っていた。何か言うと、BBCに対抗するローカル局が世界に発信している、そういう図式が描けるよと思ってくれて、すごく熱くラブコールをくれたことがある。九州局、KBCもそういう局になっていかないといけない。さっき博多駅からここまでタクシーに乗って、一番親しみを感じている放送局はどこですかと聞いたら、大体、いろんな街に行くと聞く。どこかと思うか。なんと、NHKと言った。やばい、民放。名古屋で一番親しみを感じる放送局はどこかとタクシーの運転手さんに聞くと、「東海だ」という局にならないといけない。


■臼井
そこはホントかなと思う。それは一人。実は会場にも各社の方がいて、それぞれ思っていることは違うと思う。名古屋もそうだろうが、なかなか福岡も競争は激しい。それぞれ主張するエリア。今日の運転手さんはそうだったということで、多分、そこはそれなりの数字が出るくると思う。


■阿武野
ほら、数字とか言った!


■臼井
それでは、数字の話をする。
視聴率の部分はかなりあって、九州朝日放送においてもどちらの放送局においてもやっている話だと思う。斉藤部長はドキュメンタリーをずっとやっていて、管理職になって数字のことを仰っていた。非常にあの方の過去をわかっているから面白かったが、オフィスで毎朝どんな感じで数字の総括をやっているか。


■阿武野
報道局長が去年の6月に変わった。それから、まったく数字のことを言わなくなった。雰囲気が明るくなった。一人の管理職でこんなに変わるもんだな、と。要するに、ぎゅうぎゅうに数字だ、数字だとやり続けたことで何が起こったかというと、つまらない職場ができただけ。マーケティングだと言い出す。何のマーケティングかと言うと、視聴者目線でとか、視聴者が今何を求めているかとずっと言い続けている。

誰だろ、視聴者って。ずっと自分でやってきたことを考えてみると、自分が発見したことをほら、こんなと伝えたいばっかりにテレビ局にいるわけで、みなさんが何を求めているかをリサーチして、それに合わせてお弁当を作って出すということをするために入ったわけではない。本当にチョモランマに登ってこんな風景だと自分の思い出として秘匿したいと人もいれば、こんなだとみんなに見せたい、その見せたい気持ちが強い人がテレビ局にいていいはず。だから、ヤクザの事務所の中に入ってみて、人間社会のチョモランマだと、今、見せようよ、みんなに見てもらおうよ。テレビ局もそういう意味では同じ。そこのところが逆転の発想をしていくうちに地盤沈下していく。

数字って何だという、数字以外を信じられないという。我々の世代から下は偏差値が大好き。偏差値好きでしょう。偏差値いくつ?みたいな。そういう世代に入って、コントロールされやすい気がする。やっぱり、リーマンショック以降、この数字がお金につながるんだと叩き込まれた。民放の社員たちは。そこで1%でいくらだよ、それが給料に跳ね返ってくるんだ、と。何のために仕事をしているのか。金をもらうためにやっているのか。つまんねえなあという感じ。


■臼井
視聴率の話をすると、切りがなくなるが、私も作り手としてやっぱり作りとして振り切れたもの、それは自分の情熱だったり関心事項だったり、それを出して、それが見てもらえることが一番幸せ。結果としてそれが見てもらえる。見てもらえないというのは商品としてダメなんだ、と。


■阿武野
商品と言うのがもうダメ。


■臼井
見てもらう以上、私は商品という言葉がどうかわからないが、それはさらされるものだと思うので、決してそこは正直おもねるつもりはない。そこは最終的には見てほしいというのは作り手のベースにあると思うので、数字市場ではないけど、そこは考えて結果として「数字が」というところは常に思う部分がある。


■阿武野
やっぱりテレビの話になったが、これは映画の鑑賞をするということと自分の現実社会を頭の中で回すのというのがエンターテインメントだと思って観る人が実際いる。

そういう方のために話をすると、澤村記者の部屋がある。あれはセットだ。澤村記者が最後に監督に対して、これで僕の取材が最後、終わりだけど
テレビの闇はもっと深いのじゃないか。あれは僕が書いたコメント。東海テレビの報道局と出ているフロアはセット。

と言ったら、結構信じる。違う。ドキュメンタリーはどういうものなのか。ドキュメンタリーはこうあらねばならないというのがあるのか。とりわけ映画はもっと自由度が高くていいのではないのか。どうしてテレビはジャーナリズムの話ばっかりになるのか。今日はそれを考えるというところだったらいいのだが、実はすごく楽しめたという人もいれば、テレビだけではなく私の会社も同じだという人もいれば、日本の社会の縮図が見えたという人もいれば、じゃあテレビはどうしたらいいのかという人もいる。

南の島の話をする。我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。ゴーギャンの絵がある。「我々」というのを「私」と変えたり、言葉を変えていくと、すごくいい問いになる。ドキュメンタリーを作るときにたまに考えたりする。ヤクザはどこから来たのか。テレビはどこから来たのか。テレビは何者か。テレビはどこへ行くのか。どこに行くのかというのを私たちは考えないといけないだろう。

もう地上波いらないよという時代に入ろうとしている。そのときに、それでもKBCだけは残してくれという福岡の人たちが言うか言わないか。NHKではなく、KBCにお金をだすと言い出すとか。

そのためには今いる人たちがどんだけ奮闘するかにかかっている。本気じゃないものは結局見ない。「ポツンと一軒家」はまさに本気。あれは見られている。誰かがしゃべったが、取材者がすごく丁寧な言葉で道を聞いたりしている。こんな丁寧な言葉で聞く番組はない、と誰かが言っていた。つまり、表現するときにこの人たちとどういう関係性かというのをきちんとみんなで話し合いながら取材の仕方を決めていったのではないか。それが通底していて本気というものにつながっているのではないかと思う。本気ではないものをこれからは見ない。

「ニュースっぽいもの」とか「ドキュメンタリーっぽいもの」を作り続けてきた部分がテレビ離れを起こしているのではと思って、私たちは一本、一本、丁寧にやろうとしている。また、今回は裸になってみる。裸になれない組織は一番脆弱だからという一つのテーゼを作って、どこまで裸になれるかというのをやってみよう、と。この程度かと随分言われて、裸になって笑われている感じが「そんななの?」という、裸になった後に。裸になったものを見て、ここから裸になる勇気があってそれでつながろうとしていると思ってくれれば、ひとまずそれでいいかな、と。


■臼井
今の話を通じていればありがたい。

一つ、作品の話に戻って、最後の最後のところで圡方監督が半ば軽いというわけではなく、編集室のありのままの状況だろう。善悪二つに分けて、編集長たちを悪者にして、3人はいい人たちだというある意味、構成の基本方針みたいなああいう調子でしゃべっている。しゃべっているのはいいが、あれを最後に構成した意味は何か。これは表現か難しいが、場として最後の意思表示、どういう意味合いがあったのか非常に関心を持った。


■阿武野
これのタイムキーパーは河合舞という女性だが、第一稿の最後のシーンを見て泣いた。こんなに悪者にならなくていいじゃないか、と言った。やっぱり、制作者の覚悟で、デスクたちだけを悪者しないよ、私ももっと悪ですよ、と。露悪的な自分というのを出さざるを得ないというか、制作意図というのはこういうものだということを開示して見せるしかない。辞めてちょっと希望に満ちたようなところで終わりにすればいいのでは、というやりとりがかなりあった。そうすると、おそらくヘボなありきたりなドキュメンタリーの毛が生えたくらいもので終わるのではないかと、制作者も裸になるべしという意味で最後に出した。そのまま残った。


■臼井
あの録音というのはどういう状況なのか。


■阿武野
常に録音している。


■臼井
圡方監督にはずっとピンマイク付いている、と。


■阿武野
ピンマイクか編集機、編集室にあるパソコンのところにピンマイクが付いているのか、それはちょっとわからないが、本人に付けているというわけではないというケースもある。


■臼井
少し話が逸れるが、技術的な話になるが、今回の作品はかなり音を相当回している。相当丁寧に拾っているし、渡邊さんの厳しいシーン、派遣会社の方からの電話のシーンなども見事に音を拾っている。大阪のシーンも拾っている。描く上、迫る意味で、かなりそこは徹底している。


■阿武野
音はすごく大事。音がないと結局、下手くそなナレーションを書いたりする。そういうものを排さないといけないという意識が最初からある。これは絵も勝負だが、音の方も勝負かもしれない。だから、付けられるものは誰にでもピンマイクを付ける。渡邊くんたちがテレビ大阪で暑いなあと言って坂道を登っていくシーンがあるが、あれは4人いる必要はない。1人は東海テレビの音声マンがついて行っていた。みたいな形で、常に見えてていいから音を取れということ。だから、きちんとした制作意図が音に対してあった。


■臼井
よく聞かれると思うが、カメラの存在が報道フロアにやっぱり最初は違和感の極致みたいな感じだったが、ずっとカメラを置いているとなくなったきたか。プロはどう感じたのだろうか、と。


■阿武野
意外となくなる。最初からもういいよと受け入れるか、最初に拒絶が起こるのかという、どちらかいいかと後から考えた。何の意図もなくいいよと言ってしまう方がもしかしたら怖いと思うようになって、ある種、取材をするということの後ろめたさというか、テレビマンでいることの後ろめたさというものを我がデスクたちはまだ持っているから、それを映されたくないと思ったから拒否したんだ、と。

そういうことを考えないデスクたちの方がおそらくヤバいよと思い始めたので、意外といいねと思った。拒絶したことはすごくバカ野郎と思って、「いつも撮っているくせに何だ、自分たちが撮られるとそんなのか。」と言ってやろうと思ったが、私がそれを言うと取材環境が荒れ果てるのでやめてくださいと言われた。ただ、やっぱり私だったら平気で映させたと言えちゃうことの方がちょっとマズいと思うが、どうだろうか。


■臼井
そこはもう理屈じゃない感じがする。そこはドキュメンタリーを撮るにあたっての人間性というか、圡方さんは独特だなと思って、あの人に迫られる割ととNOと言えない感じがある。私の感覚すると。阿武野さんみたいにズバっと来ると、もういいと言うようなこともあるかもしれない。それは人間臭い現場での理屈や論理を超えたものかなと思う。


■阿武野
やっぱり、テレビマンは後ろめたさを感じている。私もいつも後ろめたいし、そういう気持ちがある。それを撮られることに対して、どこまで許容できるかなと思ったときに、一番最初に拒絶してくれたということは今、考えるとやっぱり尊い。二ヶ月、それで動かなかったが。

冒頭のあのシーンをなしにするか、なしにしないかの論議の起こった。取材が合意して以降のシーンだけ使えと言うが、それはNOと答えた。今までものを全部使う。折れなかった、こちらが。結局は我慢比べで最終的に自分たちがNOと言ったまま取材ができなくなったんだと、きっとニュースデスクたちは責任を感じていただろうし、意外と編集マンとかカメラマンなど若い記者たちはカメラに対してそんなに拒絶する気持ちはない。やっぱり、撮れたものを最終構築する人たちの中に根本的に後ろめたさをが一番浮かぶものだと思った。その後ろめたさをテレビ局の経営者まで持ち得るかどうかがきっとその局の愛され度にかかわってくるような気がする。


■臼井
重要で一番聞いておかなければいけない質問。タイトルが「さよならテレビ」になっているが、この作品のことをまったく知らないときに「さよならテレビ」とはどういうことなのだろうと思った。現場の内側を撮ったという話だったので、いろいろ問題点があるということ(今日、みんなわかっていること)をそれを押さえていっているのではとイマジネーションを持った。となると、さよならテレビにさよならするというのはある意味、もっとキツい言い方をすれば「絶望」かと思った。

でも、そうじゃない。一旦、ここでさよならしようという意味かなと思ったし、固い言い方をすれば自己検証をやって、次のBライン(と言うと大きな話だが)、次に向けての決意表明かなと思ったりもしたが、そのあたりはどういう風にとらえるべきか。


■阿武野
私が38歳のときにメディアリテラシーの番組を作れと報道局長から命じられた。今から23年前くらい。メディアリテラシーとか何それという時代だった。報道局長はすごく新しいものを取り組むのが大好きな人だった。メディアリテラシーのドキュメンタリーを作れと言われたので映画の中に入っているが「Z」とあった。営業ネタだとか、そのころは「まるぜん」と言っていた。まるぜんも全部暴露する、あなたが持ってきている妙なネタも全部暴露する、社長会長が持ってくる秘書ネタも変なネタも全部暴露する、それをやってよいというのであれば請け負うと言った。

取材を始めて片方で小中高校の視聴覚教育の延長上にメディアリテラシーが作られるべきだという仮説をそのとき作って、小学校でカメラを回して、毎日発表しているという学校があって、高校生がドキュメンタリーを撮るというネタもあったので、その二つを追いながら返す刀で放送局の中を追おうと思っていた。

しかし、しばらくしたら営業に転属になった。つまり、そういうこと。逆鱗に触れた。ある意味、23年越しのリベンジ。まさか、圡方がZネタをやると思っていなかった。こういうことが起こるんだ、二十何年もテレビ局にいて、そういうことが起こるんだと思った。圡方は圡方の企画意図があり、プロデューサーはプロデューサーの受け止め方と考え方とこの題材についての歴史があってそこが融合していくというか混じり合っていく瞬間があった。

メディアリテラシーの番組はみんな気持ちの悪い放送局が好きで、なんかこんな風にニュースができていると言って、えー!それもそうだけど、それだけじゃねえだろというやつばかかり幻想を振りまくみたいな、そういう部分が多いので、それもうバレているよ、と。バレていることを繰り返したらダメという考え方があって、やっぱり裸になるという、それをやらざるを得ないなあという風に私は思ったので、このとき58、59歳くらいでちょうど定年の時期なので圡方がテレビの今という企画書を持ってきてしゃべっているときに、「これはさよならテレビだなあ」と言ってしまったら、大きい声で圡方が「それです!」、と。何だか知らないけど残ってしまったという。

一回ここできちんとお別れをするなら、お別れをしてもう一回出会えるときを待たなくてはという思いもあって、、、その辺の気持ちはパンフレットに書いている。武田砂鉄さん、大谷昭宏さんが書いてくれている。東海テレビの報道局の見取り図というものも出した。これは安全上、著しく・・・

そう、安心安全クソくらえというのが私らの考え。安心安全と考えているからテレビはダメになった。


■臼井
話が長くなったので、ここで会場から質問、意見何でも結構なのでいただきたい。


■質問(小室健一)
「さよならテレビ」を観て、想像以上に視聴率、視聴率至上主義にこだわっていると思った。阿武野さんに聞きたいのが、今回、取材、ドキュメンタリー作成を通して、今後、テレビはどうあるべきかと思ったか。ジャーナリズムを求めていくべきか。大衆迎合するべきか。


■阿武野
自分たちが作りたいものを作っていく、それを本気でやる、ということが原点。それと、金科玉条のように三つの役割があると言ったが、あれを本気でやった方がいい。本気でやらなければ、テレビ局はいらないと思う。

 1 事件・事故・政治・災害を知らせる
 2 困っている人(弱者)を助ける
 3 権力を監視する

じゃあ、ネットかという話があるが、「さよならテレビ」に関連する映画だとキャンペーンをやる。取材を40何社から取材を受けた。そのうち、半分以上はネット。一社づつ受ける。玉石混交かもしれないが、ライターとして来る人たちは結構めちゃくちゃ。原稿がぐちゃぐちゃだったり、質問がおかしかったり、ほとんどずっと取材者がしゃべって、これで記事になるのかなと思うことが多い。最終的に丸投げのようにして原稿が送られてきて、それをなおすというすごく大変なことも起こる。
結構読めるよと言われるが、それは我々が一生懸命なおしているから。ということは、テレビの記者、新聞の記者の方がはるかにスキルが高い。信頼性の高い記事を書いていると思う。

それが今はぐちゃぐちゃになっている状態で信用を失うみたいな形になっているが、段々わかってくると思う。そのときに、じゃあ九州にこれだけ放送局がいるかいとなったら、おそらくいらなくなると思う。やはり、本気できちんと私が見たいものKBCのこの番組だ、この人が作っているものが見たいというのをたくさん出す局がみんなに支持されて残ると思う。

大衆迎合は無理だと思う。テレビの周りに大衆はいなくなると思う。

それと、お茶の間は崩壊している。なんでテレビなのに映画に出しているか、ネットに出さないのかというと、お茶の間がなくなった世の中で不特定多数の人が知らない人と一緒に映画を観てここでため息をつくんだ、ここで笑うんだとか、外に出てまれにだが一緒にお茶飲んだりする人が出たり、そういうことが気持ちの中でロマンチックだと思っていて、私たちの作ったものを媒介にして人と人とが混じり合うということが起こってほしいと思っている。テレビを蘇らせるために実は映画をやっているので、テレビをもう一回見てもらって、いいものがあるなあと思ってもらいたい。すごくいいものがある。
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