2021年03月02日(火)
JAM The World 月イチ宮台
青木理、宮台真司
菅総理長男の接待問題、緊急事態宣言も含めて今月も非常に重要な話が出たので、以下、レポートを引用する。今回は「すべての生は死を前提に存在する」という生と死について深く言及している。
■青木
宮台さんに質問がたくさん来ている。
「ビデオニュース・ドットコムの神保哲生さんがツイッターで「そもそも、山田真貴子氏に批判の矛先を向けていること自体が作為的に見える。総務省本体は放送免許の問題に目が向かないようにしているのではないか。」と指摘しているが、どう思われているか。」
■宮台
まったく正しい。神保さんの仰る通り。
■青木
もう一通ある。
「菅総理の長男らが総務官僚を接待しなければならなかったのは、総務省が放送の許認可権を握っているからか。政府が放送局の許認可権を持ってる国なんて先進国では日本だけだそう。もう最近、日本は先進国ではないという気もする。日本が先進国だと思ってるのは日本人だけかもしれない。」
■宮台
はい。全くその通りで、日本が先進国だと思うのは頭の悪い日本人だけ。
■青木
東北新社による、菅首相の長男が勤めている会社による総務官僚への接待というのが今、大きな問題になっているが、どんな風に考えているか。
■宮台
東北新社が、衛星事業に、参入する時のコスト、これを下げてもらうために行政に便宜を図ってもらう。そのために、東北新社側、菅ジュニア側から総務官僚を接待し、それによって実際に衛星事業に参入に際するコストが下がったということがあるという、そういうことなので本当に権益まみれ。あるいは、権益がある人間たちが接待を受けているのだから、これはもう収賄。
■青木
90年代くらいに例の大蔵接待汚職があって、国家公務員倫理法や倫理規定ができても相も変わらず官僚たちはこういうことをしているのか。それとも、やっぱり首相、首相の長男だったからこうなったのか。
■宮台
僕の知る限り、総務省を除いては非常に倫理的に厳格化した状態が続いている。総務省というのは菅利権でもあるし、基本的に権力に最も近いところであるが故に好き勝手やった、と。そのとばっちりを受けた菅、ざまあみろという話。
■青木
つまり、権力にすり寄っていれば守ってもらえるというような、最近の政治と官僚の歪んだ関係がやっぱりここら辺に現れているということか。
■宮台
現れている。まさに、自分のポジションさえ安泰であれば、倫理も規則もへったくれもないというのが総務省の上層にいる人たちで、総務省の官僚全体がそうだと思われるのはやっぱり僕も困る。基本的に権力に近いところにいる人間たちがこういうクズぶりを晒したということ。これがまさに日本の劣等性そのものであるということ。
■青木
これもそうなのだが、もう一個。緊急事態宣言の解除をするか否かで関西圏などはご存知の通りもうすでに解除されたが、一都三県がどうなるのかという辺りも一つの大きな注目点になっている。どう御覧になっているか。
■宮台
皆さん、流れを思い出してほしいのだが、日本のワクチン接種がもうほとんどの国で12月、1月に始まっているのに、まだ始まっていないのは何故か。ほとんど始まっていないのは、それはGoToをやっていたから。GoToをやっていたので、それに矛盾する政策が取れなかったということで、ワクチンに関する様々な準備が遅れた。だからこれは菅のせい。
まず、そのことをよく押さえておいてほしい、あともう一つ、先進国だけじゃなくてすべての国を含めて、クラスター対策をやっているのは日本だけだということも考えてほしい。当たり前だが、クラスター対策なんかでは全容はつかめるはずがない。実際に保健所は人が足りないということで、感染者がいたらどこでマスクを外していたかとなる。そうすると家以外では飲食店となり、そのときに誰がまわりに居たかとなる。その人に保健所が電話して「そのとき、マスクしていたか」「してねーよ、飯食ってんだから」という、そういう問題。
そういう意味で言うと、保険所がどれだけ検査したのか、どれだけクラスターを追尾したのかということによって、新規感染者は変わるということがある。しかし、それとは別問題として、これヨーロッパでもアメリカでも話題になっていることなのだが、ロックダウン、あるいは、外出規制によって、感染者が減ったのかどうかについてはたくさんの感染症の学者さんたちが疑義を呈している。
それは何故かというと、新型コロナ以外の4種のコロナ風邪の、季節性の、簡単に言えば、移り変わりというのがある。そうすると12月から2月にかけてまずピークがあり、そのあとは8月に緩いピークがある、と。たまたま去年、諸外国のロックダウンがそれに重なっていたので、ロックダウンが効果があったように見えているが、統計的に分析するとロックダウンにはほとんど効果がなかった可能性があると言う人もかなりいて、実はそれがヨーロッパで外出規制に対して抗議する若者たちの暴動が起こっている理由。日本ではそういうことが全然、報じられていない。それは何故かというと、やっぱりテレビの影響力が強いがテレビが事実上デタラメ。それが背後にあるということ。
■青木
しかし、テレビと言われると、僕も若干隅っこにいるので胸が痛いところもある。ただ、変異株なんかも出てきているわけで、ロックダウンにどこまで効果があったのかという議論ももちろんあるし、それも分析しなくてはいけないが、せっかく減ってきてるわけだから、そのせいかどうか別として、ここで一歩踏み込んで広範な検査などをしなくてはいけないと思う。しかし、、そういうことをやる気配がまったくない。
■宮台
変異株は非常に重要で、もしかするとワクチンの効きとか、あるいはワクチン以前の問題として感染力がどれだけあるのか、症状がどれだ強いのか変わる可能性がある。ところが、日本はPCR全数調査に向けて動いていないので、すごく粗いサンプリングをして、その中にどれだけ新型ウイルス、変異ウイルスがいるのかということを探してるだけ。なので、変異ウイルスの拡がりについては実態は全く分かっていないということ。
■青木
全然話が変わるが、話題にしたいテーマがあって、宮台さんが話をしていた「すべての生は死を前提に存在する」というものすごく人間の根源的なテーマ。大人になるほどやっぱり死ぬのが怖いということを思う、と。もちろん僕も思うし、皆さんもそう思うと思うし、皆さんの中にも死というものが関わるような病気で闘病されている方もいるかもしれない。あるいは、子供にお父さん死ぬとどうなるのと聞かれて、答えに困っているような人もいるかもしれない。
恐らく時代がどんなに変わっても、この人間にとって死というのは永遠のテーマだと思うが、この「すべての生は死を前提に存在する」というエッセンスも含めて、この話をしたい。
■宮台
最も言いたかったことは、僕の人生62年の経験から言うと、死を怖がる人間にはすごくエゴセントリック、つまり利己的な人間が多いという経験がある。何故なんだろうかということを、結構若い頃から考えてきてはいる。それは、つまり、死を恐れざるを得ないぐらい、分断され孤立している状態にあるんだということがまずあると思う。共同体の中に生きていれば、人は死んでいるから生まれてくる、死と生が表裏一体だということはもう当たり前のようにして沁みついているはず。それが沁みついていないというのはまずおかしいということ。あともう一つ、自分の死を恐れる人間は人類がまるで永続するかのような幻想に陥っている。これはトンマ。
実は、地球の歴史についてはある程度仮説が固まりつつある。単細胞生物を含めたすべての生物が地球から一切居なくなるのが約10億年後。簡単に言うと、ちょうど6億年前からマントルが、つまり、プレートテクトニクスが水を引き込むようになっている。どんどん引き込んでいくので、この水がベアリングとなって、移動するプレートの移動がまず止まる。プレートの移動が止まると、マントル対流が止まる。マントル対流が止まると地磁気が失われる。そうすると、大気と水が引きはがされる。そうすると、灼熱地獄になって、残念だがすべての生物は死滅する。
ところで、多種多様な生物が生まれるようになったのというのは5.4億年前のカンブリア紀、カンブリア紀の大爆発と言われる事態によって起こった。あるいは、その直前にエディアカラ生物群と言うが、初めて手のひらぐらい、30センチ四方の生物が生まれたのはそのほんのちょっと前。そこから考えると、5億年のさらに2倍のところですべて滅びるということで言うと、事実上、僕たちが生き物として認識しているもの、多細胞生物が出てきてからの歴史を見ると、もうすでに3分の1が経過していて残りの3分の2ですべて死滅する。
人類は外に脱出するだろうという人がいるのだが、脱出とすると思う。しかし、残念ながら宇宙も滅びる。まず、今すでに宇宙が滅びつつあるということから言うと、地球のような生物を育むことができる惑星を持つことができる恒星というのは、L型G型恒星と言って中型の恒星。例えば、太陽がまさにF型なのだが、100億年の寿命を持つ。しかし、今この時点で言うと、太陽が生まれたのというのは46億年前。46億年前からと比較すると、もうすでに残念ながら10分の1しか太陽のような星が生まれなくなっていて、今後もどんどん生まれなくなるので、宇宙は生命を育めなくなる。
さらに、宇宙は突然、60億年前から加速膨張というのを始めた。単に膨張するのではなく、膨張の速度が加速している。その結果、従来の熱的死を迎えて全てスープになるという議論はちょっと楽天的で、今、最も有力な説は「ビックリップ」と言われるもので、220億年後には原子、あるいは、量子のレベルまで含めてバラバラになるとほぼわかってきたということ。138億年前にビッグバンで宇宙始まったとされているわけだが、その2倍経たないうちに宇宙が終わるということ。
■青木
138億年前にビッグバンが起きて宇宙が始まり、60億年くらい前からは加速膨張というのを始めた、と。220億年は果てしない年月だが、宇宙も最新のビッグリップ理論によればなくなるだろう、と。
■宮台
そう。
僕は子どもたち三人いるのだが、テレビやパソコンでそういう宇宙、地球の寿命について論じているものたくさんある。大体、小学校に入るぐらいになると、地球も終わるし宇宙も終わるんだという番組を見せる。何故かという風に思うかもしれないのだが、それは単に個人の死に浅ましくこだわるという態度を捨てて欲しいということが一つ。あともう一つは、どうせ終わるものが何故存在するのか。例えば、この宇宙というのは時空のことを意味しているのだが、宇宙が終わるというのは時間と空間が消えるということ。何故消えることが確実であるものが存在してるのだろう、何故その時空間に地球があり、我々がいるのだろうということを考えてみると、やっぱり奇跡という感覚が浮かんでくる。僕がクリスチャンであるということもあるが、この奇跡には何か理由がある、どんな理由があるんだろうという想像してほしいという風に、まず子どもたちにバトンを渡すということがある。
■青木
要するに、人間の生というものはもちろんだが、地球にも、それから太陽系にも、あるいは持てば宇宙そのものにも、要するに寿命がある、と。
■宮台
それは確実。
■青木
ただ、その前提で個人の死に浅ましくこだわるのはやめるべきだという話はわかるのだが、それは別に生命というものを軽んじるということではなく、むしろこの奇跡というものの大切さみたいなものを噛み締めろということか。
■宮台
そういうことになる。実は、我々とって死は必要。まず、死がなければ進化はない。さらに、地球の持続可能性を考えても、人が死んでくなくれないと新しく生まれてこられない。さらに、一人だけ、自分だけ、長寿を望むとか言う人がいるが、人が長寿になればなるほど地球の人口はどうしても増えてしまうわけ。僕に言わせると、「長寿を望む」・・・これも程度問題なのだが、例えば、人々が90で死ぬとすると、20~30年中にはお金を払えば140歳ぐらいまで生きるだろうという風な説もある。しかし、そういう人間は明らかに僕はエゴセントリックだと思う。エゴイスティックだという風に思う。基本、死んでくれるから生まれる。
あともう一つ、考えてほしいことは「死は僕たちの日常の前提」。僕が子どもたちに伝えるのは、例えば僕は妻と出会って3人の子どもができた、と。しかし、これは誰かが死んだから。誰かが死んでいなければ、その人が妻と出会って、僕と結婚しなかったかもしれない。あるいは、誰かが死んでいなければ、僕がその人と出会って、妻と結婚していなかった可能性もある。さらに、それだけではなく、妻は二十歳以上若いが、僕が今死ねばまだ妻は若いから、多分新しい出会いで新しい家族を作ることができる。そうしたら、それがすごく幸せな家族になるかもしれない。
そういうことを考えると、死はまさに僕たちの日常そのものの前提になっている。死にたくないとか言ってる人間は一体何を見ているんだということ。もちろん、地球、宇宙を見てないだけではなくて、僕たちの日常が何によって支えられてるのか、まさに死によって支えられているということをまったくわかっていないということ。
■青木
人間の生命と同様、宇宙も地球も寿命があるということが究極的には言えるということになってくると、宗教というものをどうとらえるべきなのか。
宮台さんはクリスチャンで宗教的価値は今でも持ってるわけで、宗教というものをどういう風にとらえていくべきか。もう一つ、近代社会というのが本来は日常的にあるべき死をクレンジングして見せない、隠す、触らないというような方向に進んできていることが、死というものに対する恐怖心とか、逆に言えば浅ましさみたいなものにつながっているのかなという気もする。
■宮台
まず、自分が死ぬこととは別に親しい人が死ぬことはやっぱりとても悲しい。かなり古い時代から、もしかすると火を使うようになった頃からとしたら200万年の歴史があることになるが、「死んだ人はどこに行くのか」という問いが生まれた。それで死んだ人が行く場所として、古い社会は水平に考えるので、あの山の向こう側とかあの海の向こう側という風に最初考えるようになったということはわかっている。それが一つの宗教のルーツ、紀元だという風に考えることができる。したがって、どんな宗教でも、必ず「死」について明示的に言及する。
死について意識するためには宗教はすごく役に立つという風に言うことができる。しかし、僕は個人的には宗教を死の悲しみについて解説する処方箋として子供に渡すということはしない方がいいと思っている。それは昔と違う点があって、昔は共同体社会があると誰もが同じ宗教的な共通前提の上にあった。しかし、今は違う。人それぞれ全く違った前提の中で生きている。そうすると、子供が、例えば小さい時に両親から宗教を受け渡されて、ある宗教を信じるようになり、宗教の内側で死の問題を解決したつもりになったとすれば、成人するまで、あるいは、成人して以降に宗教を捨てる可能性がある。そのことをよく考えるべきで、大人になって神様なんかいないという風な考え方に子供が変わったとき、そのことについて責任が取れるような態度をとるべきだというのが僕の考え。
もちろん、僕は無神論者ではなくて、クリスチャンなのだが、クリスチャニティーを子供押し付けるということは一切せず、今の地球物理あるいは宇宙物理の枠の中で最も確からしいとされている仮説を話し、あるいは、実際にそれについて作られた数多くの動画を観てもらう、と。例えば、恐竜滅びていないと、僕達はここにいられないわけだが、これは御存知のようにメキシコ湾あたりに直径10キロの巨大な隕石が降ったことによって生じた大絶滅の結果。実は大絶滅は良いこと。何故かというと大絶滅によって生じた生態学的なニッチで、進化の大爆発が生じるということによって今日の生態系があるから。少なくとも6回の大絶滅があったということは今完全な定説になっているということ。だから、そういうことを伝える。
だから、例えば人類が絶滅したところで、別に何かそんなにあたふた考えるべきことではなくて、生態学的なニッチにまた進化の大爆発が生じる。何故かというと、人間が最も地球の様々な環境的な資源をオキュパイしてきたことがあるので、人間がいなくなれば様々な僕たちが知らない現象がそのあと生じることはまちがいない。もちろん地球は10億年すれば生命はいなくなってしまうが、どうせ人間の寿命なんて、人類の寿命なんておそらく数百年。おそらく1000年もないかもしれないわけ。しかし、だから良い。
■青木
宗教の役割というのはもちろん死の悲しみというものを乗り越えるというなこともあったと思うが、ある意味で死に対する恐怖みたいなものを乗り越えるためのものでもあったり、それが宗教というものが人間のある種の道徳だったりとか倫理みたいなものにも結び付いていくことで、お天道様が見てるからみたいな単純な話で言えば悪いことをしてはいけないというようなことがあった。
ところが、すべてのものに寿命はあるのだが、地球にも宇宙にもあるというような考え方というのは、
確かに死への恐怖というものは多少和らぐかもしれないが、人の生き様みたいなものが刹那的になりかねない気がする。
■宮台
そんなことはない。それは生き方が間違っているから。
元々、死は共同体のものだった。だから、人を看取ったし、自分も看取られた。しかし、日本人の多くが生き方を間違っているので、在宅で死ぬ人のうち行政統計では5人に1人、特殊清掃業者によると4人に1人以上は孤独死だという風な話になっている。世界でこのような孤独死が話題になっている国、場合によっては生じている国というのは恐らく日本だけ。つまり、それは人を頼りにする代わりに、市場、マーケットと行政ばかり頼りにして、何かというと国は何やってるんだ、経済政策はどうなってるんだとか、ぎゃあこら、ぎゃあこら叫んでいる、そういう人間が次々に孤独死していく。
だから、基本、孤独死は嫌だから絆を作れという風に僕は言いたいのではない。そういうものは絆ではない。それこそまさに利己主義そのものなのだが、そうではなくて、正しい生き方をしていれば死は怖くない。自分が看取ったように、自分も看取られる、そういう風にして人類は何万年も何十万年もやってきている。誰もが恐れずにそれを受けて受け入れてきたことを自分だけ恐れているということがもしあるとすれば、それは生き方が間違っている。
■青木
そういう意味で言うと、死というものが孤独死というケースも非常に増えているのだろうが、ある意味で自宅とか家族とかと一緒にではなく病院で亡くなるということ、あるいは、葬儀とかというものも昔は地域の共同でみんなで送り出した葬儀が葬祭業者みたいなところに委ねられて資本の論理の中に巻き込まれていく、と。
僕らメディアも死というものを隠そう隠そうとしている災害のとき、戦争のときとかに、これはショックを受ける人がいるからという理由はあるのだが、死というものが見えなくさせられていくということが死というものに対する現実感の無さ、あるいは、死というものなんかを遠ざけていくというようなところには繋がっているのではないだろうか。
■宮台
まさにそう。
クレンジングは良くない。絶えず死を目撃できる状況、これがやっぱり良い。僕は父が今ものすごい弱っていて施設にいるのだが、わかりやすく言えば、老衰が始まりかけているという状況。昨日も病院に行った。誤診があったりしたので病院を変えてもらうとかということをいろいろして、老人だけがいる病院とかも最近見ている。そうすると、この人たち家族いるのかなとか、今コロナだから家族来れないということになってるのだが、それがどんなに辛いだろうなという風にやっぱり思う。
そういう終末期を迎えた人たちをたくさん見るということがあると、やっぱりいろんなことを考える。僕もこういう風にして死ぬのかな、もっと別の死に方がいいのかな、とやっぱり考える。だから、絶えず死を目撃できる環境が必要なので、そこからするとクレンジングというのはもう絶対にダメなこと。
■青木
生命というのは、人間ももちろんだが、すべての生命、地球にも、太陽系にも、宇宙にも、要するにいずれ寿命が来て、我々はすべていずれは消え去る、と。だからこそ、この話をたくさんの方がいろんなところで聞いてくれているという、この奇跡を大切にかみしめなくてはいけないということか。
■宮台
ホントにそう。
劇場版「鬼滅の刃」で、煉獄杏寿郎が「人はいつか死ぬからこそ儚く美しい存在だ」という風なセリフを言う。子どもたちがたくさんこれを見たというのはすごい良いこと。自分が今こうしていること、誰かと出会っているということも本当に奇跡。どうせ終わるのに「何故、存在するのか」ということを考えるだけで、誰もがわかること。だからどうせ終わるんだ、ということをはっきり分かるようなそういう環境の中に、子供たちが育ち上がるということがとても重要。クレンジングされた環境で育った大人たちだけがヘタレになっていくんだという風に断言していいと思う。
JAM The World 月イチ宮台
青木理、宮台真司
菅総理長男の接待問題、緊急事態宣言も含めて今月も非常に重要な話が出たので、以下、レポートを引用する。今回は「すべての生は死を前提に存在する」という生と死について深く言及している。
■青木
宮台さんに質問がたくさん来ている。
「ビデオニュース・ドットコムの神保哲生さんがツイッターで「そもそも、山田真貴子氏に批判の矛先を向けていること自体が作為的に見える。総務省本体は放送免許の問題に目が向かないようにしているのではないか。」と指摘しているが、どう思われているか。」
■宮台
まったく正しい。神保さんの仰る通り。
■青木
もう一通ある。
「菅総理の長男らが総務官僚を接待しなければならなかったのは、総務省が放送の許認可権を握っているからか。政府が放送局の許認可権を持ってる国なんて先進国では日本だけだそう。もう最近、日本は先進国ではないという気もする。日本が先進国だと思ってるのは日本人だけかもしれない。」
■宮台
はい。全くその通りで、日本が先進国だと思うのは頭の悪い日本人だけ。
■青木
東北新社による、菅首相の長男が勤めている会社による総務官僚への接待というのが今、大きな問題になっているが、どんな風に考えているか。
■宮台
東北新社が、衛星事業に、参入する時のコスト、これを下げてもらうために行政に便宜を図ってもらう。そのために、東北新社側、菅ジュニア側から総務官僚を接待し、それによって実際に衛星事業に参入に際するコストが下がったということがあるという、そういうことなので本当に権益まみれ。あるいは、権益がある人間たちが接待を受けているのだから、これはもう収賄。
■青木
90年代くらいに例の大蔵接待汚職があって、国家公務員倫理法や倫理規定ができても相も変わらず官僚たちはこういうことをしているのか。それとも、やっぱり首相、首相の長男だったからこうなったのか。
■宮台
僕の知る限り、総務省を除いては非常に倫理的に厳格化した状態が続いている。総務省というのは菅利権でもあるし、基本的に権力に最も近いところであるが故に好き勝手やった、と。そのとばっちりを受けた菅、ざまあみろという話。
■青木
つまり、権力にすり寄っていれば守ってもらえるというような、最近の政治と官僚の歪んだ関係がやっぱりここら辺に現れているということか。
■宮台
現れている。まさに、自分のポジションさえ安泰であれば、倫理も規則もへったくれもないというのが総務省の上層にいる人たちで、総務省の官僚全体がそうだと思われるのはやっぱり僕も困る。基本的に権力に近いところにいる人間たちがこういうクズぶりを晒したということ。これがまさに日本の劣等性そのものであるということ。
■青木
これもそうなのだが、もう一個。緊急事態宣言の解除をするか否かで関西圏などはご存知の通りもうすでに解除されたが、一都三県がどうなるのかという辺りも一つの大きな注目点になっている。どう御覧になっているか。
■宮台
皆さん、流れを思い出してほしいのだが、日本のワクチン接種がもうほとんどの国で12月、1月に始まっているのに、まだ始まっていないのは何故か。ほとんど始まっていないのは、それはGoToをやっていたから。GoToをやっていたので、それに矛盾する政策が取れなかったということで、ワクチンに関する様々な準備が遅れた。だからこれは菅のせい。
まず、そのことをよく押さえておいてほしい、あともう一つ、先進国だけじゃなくてすべての国を含めて、クラスター対策をやっているのは日本だけだということも考えてほしい。当たり前だが、クラスター対策なんかでは全容はつかめるはずがない。実際に保健所は人が足りないということで、感染者がいたらどこでマスクを外していたかとなる。そうすると家以外では飲食店となり、そのときに誰がまわりに居たかとなる。その人に保健所が電話して「そのとき、マスクしていたか」「してねーよ、飯食ってんだから」という、そういう問題。
そういう意味で言うと、保険所がどれだけ検査したのか、どれだけクラスターを追尾したのかということによって、新規感染者は変わるということがある。しかし、それとは別問題として、これヨーロッパでもアメリカでも話題になっていることなのだが、ロックダウン、あるいは、外出規制によって、感染者が減ったのかどうかについてはたくさんの感染症の学者さんたちが疑義を呈している。
それは何故かというと、新型コロナ以外の4種のコロナ風邪の、季節性の、簡単に言えば、移り変わりというのがある。そうすると12月から2月にかけてまずピークがあり、そのあとは8月に緩いピークがある、と。たまたま去年、諸外国のロックダウンがそれに重なっていたので、ロックダウンが効果があったように見えているが、統計的に分析するとロックダウンにはほとんど効果がなかった可能性があると言う人もかなりいて、実はそれがヨーロッパで外出規制に対して抗議する若者たちの暴動が起こっている理由。日本ではそういうことが全然、報じられていない。それは何故かというと、やっぱりテレビの影響力が強いがテレビが事実上デタラメ。それが背後にあるということ。
■青木
しかし、テレビと言われると、僕も若干隅っこにいるので胸が痛いところもある。ただ、変異株なんかも出てきているわけで、ロックダウンにどこまで効果があったのかという議論ももちろんあるし、それも分析しなくてはいけないが、せっかく減ってきてるわけだから、そのせいかどうか別として、ここで一歩踏み込んで広範な検査などをしなくてはいけないと思う。しかし、、そういうことをやる気配がまったくない。
■宮台
変異株は非常に重要で、もしかするとワクチンの効きとか、あるいはワクチン以前の問題として感染力がどれだけあるのか、症状がどれだ強いのか変わる可能性がある。ところが、日本はPCR全数調査に向けて動いていないので、すごく粗いサンプリングをして、その中にどれだけ新型ウイルス、変異ウイルスがいるのかということを探してるだけ。なので、変異ウイルスの拡がりについては実態は全く分かっていないということ。
■青木
全然話が変わるが、話題にしたいテーマがあって、宮台さんが話をしていた「すべての生は死を前提に存在する」というものすごく人間の根源的なテーマ。大人になるほどやっぱり死ぬのが怖いということを思う、と。もちろん僕も思うし、皆さんもそう思うと思うし、皆さんの中にも死というものが関わるような病気で闘病されている方もいるかもしれない。あるいは、子供にお父さん死ぬとどうなるのと聞かれて、答えに困っているような人もいるかもしれない。
恐らく時代がどんなに変わっても、この人間にとって死というのは永遠のテーマだと思うが、この「すべての生は死を前提に存在する」というエッセンスも含めて、この話をしたい。
■宮台
最も言いたかったことは、僕の人生62年の経験から言うと、死を怖がる人間にはすごくエゴセントリック、つまり利己的な人間が多いという経験がある。何故なんだろうかということを、結構若い頃から考えてきてはいる。それは、つまり、死を恐れざるを得ないぐらい、分断され孤立している状態にあるんだということがまずあると思う。共同体の中に生きていれば、人は死んでいるから生まれてくる、死と生が表裏一体だということはもう当たり前のようにして沁みついているはず。それが沁みついていないというのはまずおかしいということ。あともう一つ、自分の死を恐れる人間は人類がまるで永続するかのような幻想に陥っている。これはトンマ。
実は、地球の歴史についてはある程度仮説が固まりつつある。単細胞生物を含めたすべての生物が地球から一切居なくなるのが約10億年後。簡単に言うと、ちょうど6億年前からマントルが、つまり、プレートテクトニクスが水を引き込むようになっている。どんどん引き込んでいくので、この水がベアリングとなって、移動するプレートの移動がまず止まる。プレートの移動が止まると、マントル対流が止まる。マントル対流が止まると地磁気が失われる。そうすると、大気と水が引きはがされる。そうすると、灼熱地獄になって、残念だがすべての生物は死滅する。
ところで、多種多様な生物が生まれるようになったのというのは5.4億年前のカンブリア紀、カンブリア紀の大爆発と言われる事態によって起こった。あるいは、その直前にエディアカラ生物群と言うが、初めて手のひらぐらい、30センチ四方の生物が生まれたのはそのほんのちょっと前。そこから考えると、5億年のさらに2倍のところですべて滅びるということで言うと、事実上、僕たちが生き物として認識しているもの、多細胞生物が出てきてからの歴史を見ると、もうすでに3分の1が経過していて残りの3分の2ですべて死滅する。
人類は外に脱出するだろうという人がいるのだが、脱出とすると思う。しかし、残念ながら宇宙も滅びる。まず、今すでに宇宙が滅びつつあるということから言うと、地球のような生物を育むことができる惑星を持つことができる恒星というのは、L型G型恒星と言って中型の恒星。例えば、太陽がまさにF型なのだが、100億年の寿命を持つ。しかし、今この時点で言うと、太陽が生まれたのというのは46億年前。46億年前からと比較すると、もうすでに残念ながら10分の1しか太陽のような星が生まれなくなっていて、今後もどんどん生まれなくなるので、宇宙は生命を育めなくなる。
さらに、宇宙は突然、60億年前から加速膨張というのを始めた。単に膨張するのではなく、膨張の速度が加速している。その結果、従来の熱的死を迎えて全てスープになるという議論はちょっと楽天的で、今、最も有力な説は「ビックリップ」と言われるもので、220億年後には原子、あるいは、量子のレベルまで含めてバラバラになるとほぼわかってきたということ。138億年前にビッグバンで宇宙始まったとされているわけだが、その2倍経たないうちに宇宙が終わるということ。
■青木
138億年前にビッグバンが起きて宇宙が始まり、60億年くらい前からは加速膨張というのを始めた、と。220億年は果てしない年月だが、宇宙も最新のビッグリップ理論によればなくなるだろう、と。
■宮台
そう。
僕は子どもたち三人いるのだが、テレビやパソコンでそういう宇宙、地球の寿命について論じているものたくさんある。大体、小学校に入るぐらいになると、地球も終わるし宇宙も終わるんだという番組を見せる。何故かという風に思うかもしれないのだが、それは単に個人の死に浅ましくこだわるという態度を捨てて欲しいということが一つ。あともう一つは、どうせ終わるものが何故存在するのか。例えば、この宇宙というのは時空のことを意味しているのだが、宇宙が終わるというのは時間と空間が消えるということ。何故消えることが確実であるものが存在してるのだろう、何故その時空間に地球があり、我々がいるのだろうということを考えてみると、やっぱり奇跡という感覚が浮かんでくる。僕がクリスチャンであるということもあるが、この奇跡には何か理由がある、どんな理由があるんだろうという想像してほしいという風に、まず子どもたちにバトンを渡すということがある。
■青木
要するに、人間の生というものはもちろんだが、地球にも、それから太陽系にも、あるいは持てば宇宙そのものにも、要するに寿命がある、と。
■宮台
それは確実。
■青木
ただ、その前提で個人の死に浅ましくこだわるのはやめるべきだという話はわかるのだが、それは別に生命というものを軽んじるということではなく、むしろこの奇跡というものの大切さみたいなものを噛み締めろということか。
■宮台
そういうことになる。実は、我々とって死は必要。まず、死がなければ進化はない。さらに、地球の持続可能性を考えても、人が死んでくなくれないと新しく生まれてこられない。さらに、一人だけ、自分だけ、長寿を望むとか言う人がいるが、人が長寿になればなるほど地球の人口はどうしても増えてしまうわけ。僕に言わせると、「長寿を望む」・・・これも程度問題なのだが、例えば、人々が90で死ぬとすると、20~30年中にはお金を払えば140歳ぐらいまで生きるだろうという風な説もある。しかし、そういう人間は明らかに僕はエゴセントリックだと思う。エゴイスティックだという風に思う。基本、死んでくれるから生まれる。
あともう一つ、考えてほしいことは「死は僕たちの日常の前提」。僕が子どもたちに伝えるのは、例えば僕は妻と出会って3人の子どもができた、と。しかし、これは誰かが死んだから。誰かが死んでいなければ、その人が妻と出会って、僕と結婚しなかったかもしれない。あるいは、誰かが死んでいなければ、僕がその人と出会って、妻と結婚していなかった可能性もある。さらに、それだけではなく、妻は二十歳以上若いが、僕が今死ねばまだ妻は若いから、多分新しい出会いで新しい家族を作ることができる。そうしたら、それがすごく幸せな家族になるかもしれない。
そういうことを考えると、死はまさに僕たちの日常そのものの前提になっている。死にたくないとか言ってる人間は一体何を見ているんだということ。もちろん、地球、宇宙を見てないだけではなくて、僕たちの日常が何によって支えられてるのか、まさに死によって支えられているということをまったくわかっていないということ。
■青木
人間の生命と同様、宇宙も地球も寿命があるということが究極的には言えるということになってくると、宗教というものをどうとらえるべきなのか。
宮台さんはクリスチャンで宗教的価値は今でも持ってるわけで、宗教というものをどういう風にとらえていくべきか。もう一つ、近代社会というのが本来は日常的にあるべき死をクレンジングして見せない、隠す、触らないというような方向に進んできていることが、死というものに対する恐怖心とか、逆に言えば浅ましさみたいなものにつながっているのかなという気もする。
■宮台
まず、自分が死ぬこととは別に親しい人が死ぬことはやっぱりとても悲しい。かなり古い時代から、もしかすると火を使うようになった頃からとしたら200万年の歴史があることになるが、「死んだ人はどこに行くのか」という問いが生まれた。それで死んだ人が行く場所として、古い社会は水平に考えるので、あの山の向こう側とかあの海の向こう側という風に最初考えるようになったということはわかっている。それが一つの宗教のルーツ、紀元だという風に考えることができる。したがって、どんな宗教でも、必ず「死」について明示的に言及する。
死について意識するためには宗教はすごく役に立つという風に言うことができる。しかし、僕は個人的には宗教を死の悲しみについて解説する処方箋として子供に渡すということはしない方がいいと思っている。それは昔と違う点があって、昔は共同体社会があると誰もが同じ宗教的な共通前提の上にあった。しかし、今は違う。人それぞれ全く違った前提の中で生きている。そうすると、子供が、例えば小さい時に両親から宗教を受け渡されて、ある宗教を信じるようになり、宗教の内側で死の問題を解決したつもりになったとすれば、成人するまで、あるいは、成人して以降に宗教を捨てる可能性がある。そのことをよく考えるべきで、大人になって神様なんかいないという風な考え方に子供が変わったとき、そのことについて責任が取れるような態度をとるべきだというのが僕の考え。
もちろん、僕は無神論者ではなくて、クリスチャンなのだが、クリスチャニティーを子供押し付けるということは一切せず、今の地球物理あるいは宇宙物理の枠の中で最も確からしいとされている仮説を話し、あるいは、実際にそれについて作られた数多くの動画を観てもらう、と。例えば、恐竜滅びていないと、僕達はここにいられないわけだが、これは御存知のようにメキシコ湾あたりに直径10キロの巨大な隕石が降ったことによって生じた大絶滅の結果。実は大絶滅は良いこと。何故かというと大絶滅によって生じた生態学的なニッチで、進化の大爆発が生じるということによって今日の生態系があるから。少なくとも6回の大絶滅があったということは今完全な定説になっているということ。だから、そういうことを伝える。
だから、例えば人類が絶滅したところで、別に何かそんなにあたふた考えるべきことではなくて、生態学的なニッチにまた進化の大爆発が生じる。何故かというと、人間が最も地球の様々な環境的な資源をオキュパイしてきたことがあるので、人間がいなくなれば様々な僕たちが知らない現象がそのあと生じることはまちがいない。もちろん地球は10億年すれば生命はいなくなってしまうが、どうせ人間の寿命なんて、人類の寿命なんておそらく数百年。おそらく1000年もないかもしれないわけ。しかし、だから良い。
■青木
宗教の役割というのはもちろん死の悲しみというものを乗り越えるというなこともあったと思うが、ある意味で死に対する恐怖みたいなものを乗り越えるためのものでもあったり、それが宗教というものが人間のある種の道徳だったりとか倫理みたいなものにも結び付いていくことで、お天道様が見てるからみたいな単純な話で言えば悪いことをしてはいけないというようなことがあった。
ところが、すべてのものに寿命はあるのだが、地球にも宇宙にもあるというような考え方というのは、
確かに死への恐怖というものは多少和らぐかもしれないが、人の生き様みたいなものが刹那的になりかねない気がする。
■宮台
そんなことはない。それは生き方が間違っているから。
元々、死は共同体のものだった。だから、人を看取ったし、自分も看取られた。しかし、日本人の多くが生き方を間違っているので、在宅で死ぬ人のうち行政統計では5人に1人、特殊清掃業者によると4人に1人以上は孤独死だという風な話になっている。世界でこのような孤独死が話題になっている国、場合によっては生じている国というのは恐らく日本だけ。つまり、それは人を頼りにする代わりに、市場、マーケットと行政ばかり頼りにして、何かというと国は何やってるんだ、経済政策はどうなってるんだとか、ぎゃあこら、ぎゃあこら叫んでいる、そういう人間が次々に孤独死していく。
だから、基本、孤独死は嫌だから絆を作れという風に僕は言いたいのではない。そういうものは絆ではない。それこそまさに利己主義そのものなのだが、そうではなくて、正しい生き方をしていれば死は怖くない。自分が看取ったように、自分も看取られる、そういう風にして人類は何万年も何十万年もやってきている。誰もが恐れずにそれを受けて受け入れてきたことを自分だけ恐れているということがもしあるとすれば、それは生き方が間違っている。
■青木
そういう意味で言うと、死というものが孤独死というケースも非常に増えているのだろうが、ある意味で自宅とか家族とかと一緒にではなく病院で亡くなるということ、あるいは、葬儀とかというものも昔は地域の共同でみんなで送り出した葬儀が葬祭業者みたいなところに委ねられて資本の論理の中に巻き込まれていく、と。
僕らメディアも死というものを隠そう隠そうとしている災害のとき、戦争のときとかに、これはショックを受ける人がいるからという理由はあるのだが、死というものが見えなくさせられていくということが死というものに対する現実感の無さ、あるいは、死というものなんかを遠ざけていくというようなところには繋がっているのではないだろうか。
■宮台
まさにそう。
クレンジングは良くない。絶えず死を目撃できる状況、これがやっぱり良い。僕は父が今ものすごい弱っていて施設にいるのだが、わかりやすく言えば、老衰が始まりかけているという状況。昨日も病院に行った。誤診があったりしたので病院を変えてもらうとかということをいろいろして、老人だけがいる病院とかも最近見ている。そうすると、この人たち家族いるのかなとか、今コロナだから家族来れないということになってるのだが、それがどんなに辛いだろうなという風にやっぱり思う。
そういう終末期を迎えた人たちをたくさん見るということがあると、やっぱりいろんなことを考える。僕もこういう風にして死ぬのかな、もっと別の死に方がいいのかな、とやっぱり考える。だから、絶えず死を目撃できる環境が必要なので、そこからするとクレンジングというのはもう絶対にダメなこと。
■青木
生命というのは、人間ももちろんだが、すべての生命、地球にも、太陽系にも、宇宙にも、要するにいずれ寿命が来て、我々はすべていずれは消え去る、と。だからこそ、この話をたくさんの方がいろんなところで聞いてくれているという、この奇跡を大切にかみしめなくてはいけないということか。
■宮台
ホントにそう。
劇場版「鬼滅の刃」で、煉獄杏寿郎が「人はいつか死ぬからこそ儚く美しい存在だ」という風なセリフを言う。子どもたちがたくさんこれを見たというのはすごい良いこと。自分が今こうしていること、誰かと出会っているということも本当に奇跡。どうせ終わるのに「何故、存在するのか」ということを考えるだけで、誰もがわかること。だからどうせ終わるんだ、ということをはっきり分かるようなそういう環境の中に、子供たちが育ち上がるということがとても重要。クレンジングされた環境で育った大人たちだけがヘタレになっていくんだという風に断言していいと思う。